『……ほら、あの子よ』
『まあ、あの子が……』
『可哀想よねぇ、非道い父親を持って』
『父親の実験だか何だかのせいで、母親が犠牲になったって言うじゃない』
『恐ろしいわよねぇ、自分の奥さんを実験台にするなんて……』
（やめて……）
『あの子のことも人に預けっぱなしで、１度も会いにこないんですって』
『まぁ、可哀想に』
（やめて……）
『可哀想ねぇ……』
（やめてっ！）

「碇カスミの戦い」第拾六話　死に至る病、そして
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　作・スニフ


（血の匂いがするエントリー・プラグ。でも、なぜか懐かしいカンジがする……）
ＮＥＲＶ本部の実験室。チルドレンの３人がシンクロ・テストを受けていた。
（やっぱりこのカンジ……、お母さんなの……？）

コンソール・ルームでは、マヤが顔を輝かせていた。
「す、凄いですよ、先輩！　カスミちゃんのシンクロ率、ついにアスカちゃんを抜きました！」
「え、ええ、そうね……」
そう答えるリツコの表情は曇っていた。
（やっぱり……カスミ、気付いてしまったのね……）
モニターに写るカスミの表情も暗い。リツコはそんなカスミを辛そうに眺めていた。
事情のわからないミサトも、そんなカスミとリツコに不思議そうな視線を向けていた。

「凄いわ、カスミちゃん！　ついに１番よっ！！」
コンソール・ルームにチルドレンの３人が引き上げてくると、マヤが嬉しそうに報告を始めた。途端にカスミとアスカの顔が強張る。
「そうですか……」
「ふんっ。よかったわねっ！！」
曖昧な微笑みを浮かべるカスミ。そんな中、不意にリツコがカスミの前に立った。
「カスミ…」
「え、あ、はい」
「ちょっとあなたと話がしたいの。残ってくれる？」
「はい」
「お願いね」
カスミに話しかけるリツコは、やはり穏やかな雰囲気をまとっていた。そんな彼女に、カスミだけでなくレイも不思議そうな顔をしていた。

「リツコ、カスミに何の用事かしら？」
コンソール・ルームからリツコとチルドレン達が姿を消すと、ミサトがポツリと呟いた。
「シンクロ率が急に上がったんで、いろいろ訊きたいんじゃないですか？」
それに応えたのはマヤだった。
「カスミのシンクロ率、そんなに急に上がったの？」
「そうですね……。カスミちゃん、努力家だからずっとコンスタントに上がり続けてましたけど、確かに今回の上がり方は驚きでしたね」
「ふ〜ん……。カスミが最近、元気ないのとは……関係ないわよね…」
「逆だったらあり得ますけど……。カスミちゃん、元気ないんですか？」
「さっきも暗かったでしょ？　こりゃ、好きな男の子にでもフラれたかな？」
ミサトは重くなった空気を吹き飛ばすように、少しおどけて見せた。途端にマヤの形相が変わる。
「カスミちゃん、好きな男の子いるんですかっ！？」
「え、あ、いや、聞いたことないけど……」
ミサトが怯んだように否定すると、マヤはあからさまに安堵したような溜め息を漏らした。
「カスミちゃんは、男なんか好きになっちゃダメですっ！」
思わず引きつるミサト。
「……一応、訊いておくけど、なんで？」
「え？　あ、あははは…」
（ＮＥＲＶ、こんなんで大丈夫かしら……）
マヤの乾いた笑いを聞いて、ミサトはそっと嘆息した。

「参っちゃうわよねぇ〜、あ〜っさり抜かれちゃったじゃない？　ここまで簡単にやられると、正直ちょ〜っと悔しいわよねぇ〜〜」
更衣室ではアスカがわざとらしい脳天気な声でぼやいていた。カスミは何も答えられず、ただ黙々と着替えをしている。レイも無言である。
「凄いっ、素晴らしいっ、強いっ、強すぎるっ！　ああっ、無敵のカスミ様ぁ〜〜」
アスカは芝居がかった口調で、大袈裟なゼスチャーを交えながら皮肉を言うが、もちろん応えは返ってこなかった。
「じゃ、私リツコさんに呼ばれてるから、先行くね」
「ええ」
応えたのはレイだけで、アスカは振り向こうともしなかった。
カスミがドアの向こうに消えると、レイはゆっくりとアスカに近づいた。
「何よっ、優等生！」
「あなたは……何に脅えてるの？」
その言葉を聞いて、アスカの頭に血がのぼった。
「脅えてるっ！H　アタシが何に脅えてる、ってーのっ！？」
「ごめんなさい。そういう風に、見えたから……」
「アタシのこと何も知らない癖に、偉そうなこと言わないでよねっ！！」
「ごめんなさい……」
申し訳なさそうに俯くレイから逃げるように、アスカは顔を背けて歩き出した。
「じゃ、アタシは帰るから。さよならっ」
レイは１人になった更衣室で、そっと嘆息した。

「テストの後で疲れてるのに、悪かったわ」
カスミがリツコの研究室を訪れると、部屋の主はちょうどコーヒーを入れてるところだった。
「いえ、いいです」
まだ優しいリツコに慣れないのか、カスミはおどおどしたままだった。
コーヒーを入れ終わると、リツコは真剣な表情でカスミの正面に座った。
「カスミ、前回のテストのときより、あなたのシンクロ率は格段に上がったわ。・・・何か、心当たりはない？」
カスミの表情が強張るのを、リツコは見逃さなかった。
（やはり……気付いたのね……）
室内に重苦しい沈黙が降りた。２人がコーヒーをすする音だけが響く。カスミが何やら考え込み、やがて決意をしたように顔を上げるまで、リツコは忍耐強く待っていた。
「リツコさん……私のお母さんのこと、知ってますか？」
「ええ。何度か会ったこともあるわ……」
「……いる……んですよね？　初号機の中に……」
「やはり……知ってしまったのね……」
それは決定的な肯定の言葉だった。カスミの肩がぴくりと震えるのを見て、リツコは眉を曇らせた。カスミはその言葉を聞きたくなかったのか、それとも待ち望んでいたのか、それさえも自分ではわからなかった。
「碇ユイ博士……素晴らしい科学者だったわ」
「博士？　科学者？」
「知らなかったの？　ＥＶＡの基礎理論を解いたのは、あなたのお母さんよ？」
カスミは呆然としていた。目を見開いてリツコを凝視している。
「私の知ってるお母さんは、普通のお母さんだった。……科学者なんかじゃなかった。お父さんの実験の被験者にされて、そして死んだって……」
「人からそう聞いたの？　あなたは無意識に辛いことを記憶から閉め出してるだけなのよ。だから、あなたは４歳以前の記憶を持っていないの」
「それ……どういう意味ですか……？」
リツコは、はっとしたように、カスミから目を逸らした。
「ごめんなさい、喋りすぎたわ」
「リツコさんっ、教えてください！　ホントのこと、知りたいんです！」
しばらく２人は見つめ合っていたが、やがてリツコが決意をしたように頷いた。
「今から１０年ほど前の話よ……。まだＮＥＲＶが『ゲヒルン』と呼ばれる研究機関だったころの……。あなたのお母さん、碇ユイさんは、自らが開発したＥＶＡとのシンクロ実験にのぞんだわ。……でも、ＥＶＡに取り込まれて消えてしまった」
「消えた？」
「ええ。……そしてそのとき、あなたも見ていたのよ」
「えっ！？」
「あなたのお母さんは、あなたの目の前で消えてしまったの……」
「そんな……」

それは決して開けられることのない記憶の扉だった。カスミの頭の中に、様々な映像がフラッシュ・バックする。巨大な実験施設。カスミの目の前には巨人の姿があった。
『碇、なぜここに子供がいる』
『ごめんなさい、冬月先生。私が連れてきたんです』
『ユイ君、今日は君の大事な実験の日なんだよ？』
『だからなんです。この子には、人類の明るい未来を見せておきたいんです』
やがて大人達が慌ただしく動き始めた。
『どうしたっ！？』
『何が起こった！？』
『脳波、心音、共に停止！』
『被験者、生命反応がありません！』
『回路切断、実験中止！』

カスミは小さく震えていた。見開いた目からは、涙がこぼれようとしていた。
「私……私……ＥＶＡを知っていた……？」
声もかすれていた。リツコはそんなカスミの肩を抱いてやった。
「無理に思い出さなくていいわ。辛い過去だから、あなたは忘れていたんですもの……」
「惣流さんも……惣流さんのお母さんもなんですか……？」
「……あなたのお母さんがＥＶＡに取り込まれてからサルベージが試みられたわ。でも失敗だった。そのデータを応用してアスカの母親、キョウコ・惣流・ツェッペリンが再びＥＶＡとの接触実験を試みたのだけど、やはりＥＶＡに取り込まれてしまったの。彼女のサルベージは成功したのだけど……、還ってきたキョウコさんは、魂の抜け殻だったのよ」
「……じゃあ惣流さんが、お母さんに関して哀しい記憶を持ってるのは……」
「そうね。アスカの知る母親は、魂の抜け殻だったんですもの」
「……私達がチルドレンに選ばれたのは、そういうことだったんですね……」
「ええ。……あなたのお母さんとアスカの母親がＥＶＡに取り込まれてしまったけど、魂の宿ったＥＶＡなら、その近親者はシンクロできることがわかったわ。チルドレン選抜にはそういう経緯があるのよ」
カスミの胸の内に、様々な感情が吹き荒れた。膝の上で握った手が震える。
「じゃ、綾波さんの魂の欠片が零号機の中で眠ってるのも、お父さんがしたしたことなんですね……」
「ええ。レイのシンクロ率が低いのは、あなた達とは違い、シンクロしてるのが魂の欠片と呼ぶべきものだからなの」
「そんな命を弄ぶような恐ろしいこと……」
カスミの声が震えた。
「私達がやってることが許されないことなのはわかってる。でも、その方法でしか人はＥＶＡを使いこなせないのよ」
「……」
「理解しろとは言わないわ。私達を呪ってくれてもいい。どれだけ自分が罪深いか、私もわかってるつもりよ」
「わかりません…」
カスミの声は弱々しかった。ついにその瞳からは涙が流れ落ちた。混乱したままの、まとまらない頭を必死で動かして、カスミはなんとか言葉を紡いでいった。
「初号機の中にお母さんがいるってわかって……それからずっと悩んでるんですけど……わかんないんです。お父さんやリツコさんにどういう感情を持っていいのか、自分が何をすべきなのか、何が正しいのかさえ……」
「カスミ……」
リツコは切ない気持ちに突き動かされるように、カスミの肩を抱いた手に力を入れた。

カスミがゲートをくぐると、そこにはレイが待っていた。
「綾波さん…」
「碇さん…」
カスミはレイの姿を認めても、すぐに俯いてしまった。
「一緒に、帰りましょう」
「うん」
レイがカスミの手を握ると、カスミも弱々しくそれを握り返したが、相変わらず顔を伏せたままだった。
それからリニア・トレインに乗り込むまで２人は無言だった。リニアに乗り込むと、まず先に口を開いたのはレイだった。カスミは視線を床に落としたままである。
「何を……悩んでるの？」
２人は手をつないだまま並んで座っている。カスミは少し迷っていたが、おずおずと話し始めた。
「初号機の中に……私のお母さんが眠ってるの」
「知ってるわ…」
「うん……。私は、どうしたらいいんだろう……」
「哀しい？」
「わかんない……。私、お母さんのこと覚えてないから……」
「そう…」
レイの落ち着いた相づちを受けながら、カスミは少しずつ自分の心を整理していった。
「でも、やっぱりお母さんのことは好き、なんだと思う。記憶はないけど、ずっと会いたかった。お母さんがいないことが、やっぱり寂しかったと思うし……」
「辛いのね」
「そう……かもしれない」
「ごめんなさい」
「え？」
あまりにも突然なレイの謝罪の言葉に、カスミは初めて顔を上げた。そこにはレイの辛そうな表情があった。
「私には親というものがない。だから、あなたの苦しみをわかってあげられない」
レイの言葉に、カスミははっとした。
「ごっ、ゴメンね」
「？　なぜ、謝るの？」
「だって、私、綾波さんにもお母さんがいないのに、私ばっかり落ち込んだりして」
「ごめんなさい。……私には、それが辛いことだということもわからないの……」
「綾波さん…」
カスミの思考は一気に覚醒した。自分の言葉の、無邪気な残酷さを恥じた。
（そうだよ、辛いのは私だけじゃないんだ。なに悲劇のヒロインになりきってるんだろ、私）
「ゴメンね」
カスミがいつものように微笑みを浮かべたのを見て、レイは驚いたような顔をした。
「私、くよくよするのやめるよ。綾波さんが側にいてくれるのに、落ち込んでるトコばっかり見せるの、悪いモンね」
「哀しいなら、くよくよしてても構わないわ。私が、受け止めてあげる」
それもレイの本音だった。感情のままに振る舞うカスミやアスカは、レイにとって眩しい存在だった。だからこそ、レイはカスミの弱ささえ愛しているのだから。
「ううん、私がイヤなの。綾波さんの温もりをこうして感じられるだけで、私は十分幸せだもん」
そう言ってカスミは、レイの肩に甘えるように頭を預けた。
「そう…」
そんなカスミを、レイは目を細めて慈しむように見守った。

ミサトは帰宅すると、カスミとアスカの間に会話がないのを見て、そっと嘆息した。感情をコントロールすることが苦手なアスカは、カスミと話をしないことで自分の感情が爆発することを押さえようとしているのだ。
そしてミサトは、おや、と思う。カスミにさっきまでの暗さがなかった。どうやら少し立ち直ったらしい。
「カスミ、結局何を悩んでたの？」
アスカが風呂に行ってキッチンに２人きりになると、ミサトはそう訊かずにはいられなかった。困ったような表情になるカスミ。
「……ごめんなさい。今は言えません」
それはあまりに重い真実だった。ただでさえチルドレンを戦場に送ってることに罪悪感を持ってるミサトが知ったら、どれほど苦しむことだろう。カスミには、その真実を打ち明ける勇気はなかった。
「そう……。ま、いっか。カスミ、ちょっと明るくなったみたいだし」
「心配させちゃいましたね、ごめんなさい」
「いいのいいの。子供はそんなこと気にしちゃダメよん」
手をひらひらと振っておどけるミサトに、カスミも柔らかな微笑みを返した。

アスカが風呂から上がると、入れ違いにカスミとペンペンが一緒に風呂に行った。ミサトはアスカにも声を掛ける。
「アスカ、あんまりカスミのこと苛めちゃダメよ。あの娘も色々あるんだから」
「わかってるわよ、そんなこと！」
アスカはふてくされたまま、ミサトと目を合わそうとしなかった。
「自分が幸せだからって、他人にまで押しつけないでよね！」
リョウジとのことを言われて、ミサトは眉をひそめた。リョウジに気持ちが残っていたのは確かだが、彼はスパイなのだ。ミサトの心境は複雑だった。
「ゴメンね、アスカ。………確かに私は、加持君のことを忘れてなかったわ……」
それは自分に言い聞かせるような話し方だった。
「ふんっ」
ミサトはカスミやアスカを「子供」と呼びながらも、誤魔化しをしようとはしない。カスミやアスカが彼女を信頼するのは、そんなところかもしれなかった。
アスカにしろ、本気でリョウジとつき合えると思っていたわけではない。カスミのことと言い、ミサトのことと言い、八つ当たりしている自分を子供っぽく感じてしまい、アスカは黙って自室へ引き上げって行った。


第１２使徒は突然、第三東京市の直上に姿を現した。
空中にぽっかりと浮かんだゼブラ模様の球体は、見るものの現実感を喪失させるようなシュールさだった。あまりに唐突な出来事だったため、住民は避難に手間取っている。
「富士の電波観測所は？」
「探知してません。直上に突然現れました」
「パターン・オレンジ。ＡＴフィールド反応ありません」
「新種の使徒？」
「ＭＡＧＩは判断を保留してます」
第１２使徒は、空中に浮かんだまま何の行動も起こさなかった。ただ、ゆっくりと流されるように移動していく。
住民が避難する間、地上に射出されたＥＶＡ３機は、使徒に対してビルの陰に隠れるように配置されたまま、待機をさせられた。初号機はハンド・ガン、零号機はスナイパー・ライフル、弐号機はスマッシュ・ホークを、それぞれ手にしている。住民の避難が終わるのを待って、ミサトから指示が出された。
「目標のデータは送った通り、今はそれだけしかわからないわ。慎重に接近して反応を伺い、可能であれば市街地上空外へ誘導を行う。先行する１機が援護。これで行くわ」
『はぁ〜い先生、先鋒はカスミさんがいいと思いまぁ〜す！』
アスカが脳天気な口調で提案する。
『えっ！？　私っ！？』
流石に戸惑うカスミ。
『そりゃもう、こういうのは成績優秀、勇猛果敢、シンクロ率ナンバー・ワンのカスミ様の仕事でしょ？』
（（（勇猛果敢は違うだろ（でしょ）……）））
心の中でツッコミを入れるオペレーター３人組。
『うん、じゃあ初号機、先行します…』
カスミが消え入りそうな声を聞いて、発令所に不安な空気が流れた。
「カスミ、無理をしないで。相手に動きがあるまで攻撃はしなくていいわ」
『わかってます』

カスミはビルを盾にしながら、身軽に使徒に接近していった。それに較べ、アスカとレイはアンビリカル・ケーブルと格闘しながら進むため、スムーズな移動と呼ぶにはほど遠かった。
「みんな、まだ？」
無線だというのに、カスミは声をひそめた。
『まだよ』
『ちょっと待ちなさいよっ。そんなに早く移動できないわよっ』
２人が配置に着いていないのを確認すると、カスミは鋭い視線で使徒を伺った。
（どういうつもりかな？　私達の存在に気付いてないの？　どんな攻撃してくるかわかるだけでも楽になるのに……）
『カスミ、お待たせ』
「わっ」
気付くと、弐号機が初号機の真後ろに来ていた。
「惣流さん、ここじゃないよ？」
『わかってるわよ。換えのケーブルを取りに来ただけ』
アスカは緊張感の感じられない口調でそう告げると、初号機の後ろの兵装ビルから、予備の電源ソケットを取り出した。アスカがカスミの近くに来たのは、さっきの嫌味の照れ隠しなのかもしれない。
「使徒に動き、ないね」
『こっちから先制攻撃でもかけてみる？』
「今、リツコさん達が分析中だから、それが終わるまで待ってようよ」
『ったく、アンタってホント、臆病者よねぇ』
アスカが心底呆れたように嘆息した。そのアスカが新しいケーブルにつなぎ直したとき、使徒に変化があった。突然、空中から消えたのだ。
「消えたっ！？」
『えっ、嘘っ！？』
アスカが驚いて振り向くが、使徒が浮いていたはずの空域には、確かに何もなくなっていた。と、唐突に初号機と弐号機の真下に染みのような影が広がった。発令所からも緊迫した通信が入る。
『分析パターン、青！　使徒発見！　初号機と弐号機の直下です！！』
『何ですってっ！？』
影はまるで底なし沼のように、２体のＥＶＡを飲み込み始めた。焦るカスミとアスカ。
「わ、わ、これっ、どうなってるのぉ？」
『わっ、馬鹿っ、しがみつかないでよっ！！』
「！！　惣流さん、後ろっ！！」
『！？』
アスカが振り向くと、そこにはさっきの使徒が間近に迫っていた。恐怖する２人。もがくのも虚しく、２体のＥＶＡはスルスルと影に飲み込まれていく。カスミが影に向かってハンド・ガンを発砲するが、弾丸もただ影に飲み込まれただけだった。
『カスミっ！　アスカっ！』
『碇さんっ！』
レイがスナイパー・ライフルで使徒を射撃するが、その弾が当たる直前に使徒は姿を消し、真後ろのビルに被害をもたらしただけだった。その後、神出鬼没に現れる使徒に対して、レイが狂ったように射撃を繰り返すが、１発として使徒の体に当てることはできなかった。
その間も初号機と弐号機は影に飲み込まれていく。発令所の面々はどうすることもできずに、その絶望的状況をただ見守っていた。
『どうなってんのよっ、コレ！？　こんなのおかしいわよっ！　ミサト！　ミサト！？』
「綾波さん！　ミサトさん！　リツコさん！　何がどうなってるんですかっ！？」

やがて初号機と弐号機が、完全に影の中へと消えていった。影に飲み込まれた周りのビルも沈み始めている。
「レイ、下がりなさい……」
『待って！　まだ碇さんと弐号機パイロットが……』
「これは命令よ。下がりなさい！」
レイの焦った声を遮るように、ミサトは低い声のままはっきりと指示を下した。
マコトが何かを言おうとミサトを振り返って、そのまま絶句した。ミサトの掌は、強く握りすぎたせいで爪が肉に食い込み、血が滴っていたのだ。


「ここどこ？　まわりが真っ白だよ」
『レーダーも返ってこない。中はずいぶん広いみたいね』
使徒の影に飲み込まれた２人は、状況を把握しようと必死だった。初号機と弐号機は、見知らぬ空間で離ればなれにならないように、しっかりと手をつないでいた。
不意にカスミがモニターの異変に気付く。内部電源に切り替わっていて、エネルギーの残量のカウント・ダウンが始まっていたのだ。
「惣流さん！　外部電源が切れちゃってる！　生命維持モードに切り替えよう！」
『ホントだ。わかったわ、カスミ。これから通信機も使えなくなるけど、１人で泣いてんじゃないわよ！』
「う、うん。惣流さんも頑張ってね」
『わかってるって。アンタも、死ぬんじゃないわよっ』
生命維持モードに切り替えるとシンクロが解けた。プラグ内も非常電源に切り替わったせいで暗くなった。そんな中、カスミは自分の右手を見つめる。さっきまで弐号機と手をつないだ感触がフィード・バックされて伝わっていたのだが、今は何も感じられなくなってしまっていた。
「惣流さん…」
カスミは寂しさを感じて、胎児のように体を丸めた。


ＮＥＲＶでは、作戦課と技術課を総動員して、使徒の分析作業が進められていた。そしてその作業が終わった深夜、特設の野戦指揮所でブリーフィングが行われた。
リツコの推論は、使徒の『影』こそが本体である、というものだった。
「直径６８０メートル、厚さ約３ナノメートルのね。その極薄の空間を内向きのＡＴフィールドで支え、内部は『ディラックの海』と呼ばれる虚数空間、多分、別の宇宙につながってるんじゃないかしら？」
「だったらあの球体は？」
口を挟んだのはミサトだった。
「あれこそが使徒の本当の影よ。『ディラックの海』を破壊すれば、自然に消えるわ」
「初号機と弐号機のサルベージは？」
「今から早急に検討するわ」
そう答えながらリツコはミサトに目配せした。２人だけで話があると、言外に告げたのだ。

「ＥＶＡの強制サルベージっ！？」
「ええ」
野戦指揮所の設営されたヘリ・ポートの隅で、ミサトとリツコは対峙していた。
「現存する９９２個のＮ２爆雷を、一斉にあの影に投下。さらに零号機のＡＴフィールドで使徒の虚数空間に千分の一秒だけ干渉し、爆発のエネルギーを集中させるわ。それでディラックの海ごと目標を殲滅します」
「そんなことしたらＥＶＡの機体がっ！　あの２人はどうなるのよっ！？」
ミサトの糾弾に、リツコは眉を曇らせた。
「それ以外、方法はないのよ。……私だって、あの２人を失いたいと思ってるわけじゃないわ」
「嘘っ。アンタがカスミを疎ましく思ってるのはわかってんのよ！？」
その言葉に、リツコの顔はさらに強張った。
「…そうね、確かに私はカスミを憎んでいたわ。否定はしない。でも今は、私を信じて欲しい」
ミサトは探るような目つきでリツコを睨んでいたが、リツコの瞳の中に真摯な輝きを見ると、やがてゆっくりと頷いた。
「わかったわ…。あの２人を助けて……」
ミサトの声は震えていた。こんな危険な方法にしか頼らざるを得ない自分がもどかしかった。気付けば、痛いほど自分のこぶしを握り締めていた。
「今の私達は、初号機の力を信じるより他にないのよ…」
リツコの小さな呟きを、ミサトは聞き逃さなかった。使徒がＮＥＲＶ本部に侵入したとき、初号機を最優先で地上に射出させたゲンドウを思い出す。
「ＥＶＡって何なの？　あなたや司令がそこまで初号機にこだわる理由は何？」
「あなたに渡した資料がすべてよ」
「嘘ね」
ミサトの決めつけにリツコは体を強張らせたが、そのまま振り返らずにＮＥＲＶ本部に向かって歩き出した。ミサトはただ、その背中を鋭い目つきで睨むことしかできなかった。

リツコが発令所を目指して廊下を歩いていると、途中で意外な人物が待ち受けていた。
「レイ…」
プラグ・スーツのままのレイが立ちはだかったのだ。
「何をしてるの？　あなたは待機中のはずよ。少しでも仮眠しておきなさい」
リツコが無表情のままそう告げると、レイは俯いてしまった。
「…あの２人を……助けて…」
レイの声は震えていた。俯いたままのレイの頬に涙が流れるのを見て、リツコの体が震えた。胸に激しい感情が突き上げる。
生命を弄ぶことの罪悪感。
優秀すぎる母や碇ユイという科学者に対する敗北感。
自らの価値を失うことを怖れ、ゲンドウに縋る弱い気持ち。
カスミやレイに対する激しいまでの嫉妬心。
ゲンドウに対する想い。
それらの感情を、リツコは常に冷徹な女の仮面を被ることで心の奥に隠してきた。仮面の下には、脆くて弱い女がいるだけだったから。
しかしここ数週間の出来事、カスミの涙やゲンドウの謝罪が、その仮面にひびを入れてしまっていた。本性である脆くて弱い女が外に飛び出す。
気付くとリツコは、レイの震える華奢な体を抱きしめていた。
「赤木…博士…？」
「大丈夫……大丈夫よ。私達は、ＥＶＡとあの２人を信じましょう…」
リツコはすでに涙声だった。それはまるで、自分に言い聞かせるような話し方だった。レイは混乱しながらも、おずおずとリツコの震える体を抱きしめ返した。


初号機のエントリー・プラグの中では、カスミが目を醒ましていた。
「生命維持モードに切り替えてから１２時間…」
スーツの時計を眺めて溜め息をつく。
「眠るのがこんなに疲れるなんて、思ってなかったな…」
カスミは孤独を感じて、目の端に涙を滲ませた。再び胎児のように体を丸める。
「お腹……すいちゃった…」
寂しくなって声を出して独り言を言うが、それはさらに孤独感を煽るだけだった。
「綾波さん…」
カスミはより一層、体を丸めた。


アスカが２度目に目を醒ましたとき、プラグ内の異常を感じて目を見開いた。
「ＬＣＬが濁ってるっ！？　浄化能力が落ちてるんだっ！！」
長い時間、閉鎖された空間に閉じ込められていたアスカは、あっさりとパニックに陥ってしまった。慌ててハッチのレバーをガチャガチャと引いた。
「誰か、ここから出してよっ。こんなトコ、もうイヤよっ！！」
もちろん、エントリーされたままなので、ハッチはびくともしない。アスカはハッチを乱暴に叩き続けた。
「加持さぁん！　ミサトぉ！　カスミぃ！　ファーストぉ！　リツコぉ！　ママぁ！」
そこまで叫んでから、アスカは力を失ったようにインテリア・シートにもたれた。
「ママ…」
母親への複雑な感情が渦巻く。アスカの目の端には、いつしか涙が浮かんでいた。


早朝の発令所。
全員が寡黙になる中、オペレーションの準備が着々と整えられていた。そこにいるもの達の表情は一様に暗い。作戦が成功して使徒を殲滅できたとしても、カスミ達が無事に還ってくるとは限らないのだ。
リツコが腕時計を眺めながら呟く。
「そろそろスーツの限界が近づいてきたわね…」
「あの２人が虚数空間に囚われてからすぐに生命維持モードに切り替えたとしても、そろそろＥＶＡの内部電源も切れる頃です」
マヤが苦悶の表情でフォローを入れる。
「作業、急いで。あと３０分以内に必ず作戦を始めるわよ。…あとはＥＶＡの力を信じるだけね」


弐号機のプラグの中では、いつしかアスカも胎児のように体を丸めていた。
「そろそろスーツも限界か……アタシの命もあとわずか…」
孤独を感じて、膝を抱える腕に力をこめる。
「ここはイヤ…１人はイヤ…」
アスカの声は弱々しかった。空腹と、濁ったＬＣＬが彼女の体力を奪っていた。
「ママ…」
アスカの頬に涙が流れる。人前では決して見せることのない涙。それはアスカが極限状態にあることを示していた。
「死ぬのはイヤ…」
（死なせないわ）
「死ぬのはイヤ…」
（あなたは死なないわ）
「死ぬのはイヤ…」
（生きて）
薄れゆく意識の中、アスカは懐かしい誰かの声を聞いたような気がしていた。


カスミにも限界が近づいていた。プラグ・スーツにバッテリー切れを警告するランプが点滅している。
「もう終わりなのかな…」
血の匂いを嗅ぎながら、カスミは疲れたような溜め息をついた。
「私、死んじゃうのかな…」
カスミの頬に涙が流れる。
「ヤダよ。もう１度、綾波さんに逢いたいよ…」
カスミの脳裏にレイの笑顔がよぎる。
「綾波さん………ひっく……ふ……」
弱々しい嗚咽が、プラグの中を支配する。不意にカスミは誰かの温もりを感じて顔を上げた。
「誰…？」
光り輝く女性のイメージが、カスミを抱きしめようとしていた。
「お母さん？」
カスミも穏やかに微笑んで、その幻に向かって腕を伸ばした。
「ゴメンね…。ゴメンね、お母さん。私、女の子好きになっちゃった…。ゴメンね…」
カスミは、懐かしい温もりに抱きしめられたような気がした。


Ｎ２爆雷投下のカウント・ダウンが始まったとき、使徒に変化が訪れた。地面に広がった影がいきなり揺れだし、ひび割れ始めたのだ。
「何！？　何が起こってるの！？」
「わかりません！！　すべてのメーターは振り切れてます！！」
「まさか、あの２人が？」
「そんな馬鹿な！　エネルギーが残ってるはずないのよ！？」
やがて空中に浮かぶ球体も震えだした。影の広がった地面には亀裂が入り、血のような赤い液体が飛び散っている。
球体が血しぶきをあげて破れ始めた。発令所の面々は声もなくその様子を見守っていた。レイも零号機のプラグの中で、その様を映すモニターを食い入るように見つめていた。

「ぐおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ〜〜〜〜〜〜っっ！！」

球体を引き裂いて現れたのは、ＥＶＡ初号機であった。その腕には弐号機を抱いている。地の底から響くような咆吼に、その場の誰もが息を飲んだ。
「作戦中止！　パイロットの救出を急がせて！」
我を取り戻したミサトが素速く指示を出す。しかしそのミサトも、すぐにモニターに意識を奪われてしまう。
完全に球体を２つに引き裂くと、初号機は弐号機を抱いたまま地面に降り立った。その衝撃で地面から一斉に血しぶきがあがる。血塗れの弐号機をその腕に抱いた、血塗れの初号機。その低く唸る様は禍々しい悪魔のようだった。
見るものすべてに恐怖を植え付けて、初号機は活動を停止させた。
「なんてこと…。あなたは、本当に私達の味方でいてくれるの…？」
呆然としたようなリツコの呟き。ミサトは鋭い目つきになっていた。
（ＥＶＡが第１使徒の、ただのコピーなんかじゃないことはわかる。でもＮＥＲＶは使徒をすべて倒した後、ＥＶＡをどうするつもりなの…？）


「……う……？」
薄い瞼を数回震わせた後、カスミはゆっくりと目を醒ました。まず視界に入ったのは、愛しい少女の微笑みだった。
「綾波さん……」
レイは慈しむようにカスミの髪をなでていた。
「碇さん……よかった…」
レイの目の端には涙が盛り上がっている。カスミは弾かれるように起き上がった。レイが慌ててカスミの体を支える。
「無理しないで」
「もう大丈夫だよ」
カスミは自分の髪をなでているレイの手を取ると、ゆっくりとそれに口づけた。
「ゴメンね。心配させちゃったね」
レイは穏やかな顔のまま、首を横に振った。
「いえ、いいの。あなたが還ってきてくれただけで、私は嬉しい…」
それを聞いたカスミも目を細めて柔らかく微笑みを返す。
レイの手を握るカスミの手の温もり、日溜まりのような優しい微笑み。それは絶望に震えていたレイの心を暖めるのに十分なものだった。
「惣流さんは？」
「あの人も無事よ。ほら」
レイに目配せをされてカスミが振り返ると、そこにはアスカの呆れたような顔があった。２人は同じ病室で寝かされていたのだ。
「そっ、惣流さん！」
途端にカスミは、頬を真っ赤に染めた。
「ったく、日本人の友情って、どうしてこうウエットなのかしら。つき合ってらんないわ」
「そっ、そっかな。あは、あはははは…」
「あなたよりも先に目を醒ましていたの」
引きつるカスミに、レイがフォローを入れる。
「そ、惣流さんも無事だったんだね。よかった」
カスミは羞恥に頬を染めていたが、アスカの元気な表情を見ると、柔らかく安堵の溜め息をついた。
「ほらファースト、カスミが起きたら行かなきゃならないんじゃないの？」
「ええ、もう行くわ」
「何？　何かあるの？」
「後の処理が残ってるの。私がやるから、あなた達は休んでいて」
そう言ってレイは微笑んだまま立ち上がった。第１２使徒が第三新東京市に残した爪痕はあまりに大きかった。その処理のため、ＥＶＡが出動することになったのだ。
２人が眠っている間、ミサトやリツコ、それにオペレーターの面々や冬月まで病室を訪れていたのだが、彼等は今、その処理作業に忙殺されていた。
「うん、ありがとう」
「じゃ、また後で」
「悪いわねぇ〜」
アスカはレイに向かって手をひらひらと振っていたが、レイの姿がドアの向こうに消えると、真剣な表情になった。
「カスミ……」
「何？」
しばらくアスカは何やら鋭い目つきで考え事をしていたが、嘆息すると再び笑顔になった。
「ううん、何でもない」
カスミはそんなアスカを不思議そうにを眺めていたが、アスカの穏やかな微笑みを前に何も言えなくなってしまった。２人は再びベッドに体を預け、天井を眺めた。不意にアスカが、自分の髪の匂いを嗅いだ。
「取れないわね……」
「何が？」
「血の匂い」
「…そうだね」

（つづく）

後書き

『ディラックの海』って、僕は知らなかったんですが、有名なＳＦ小説に出てくる話みたいですね。反物質理論の提唱者、ポール・ディラックとは関係ないみたいです。

ディラックは、自分の予言した反物質（陽電子）が発見されたことによってノーベル物理学賞を受賞したり、ケンブリッジ大学のルーカス名誉教授職（ニュートンや車椅子の天才科学者、スティーブン・ホーキングなども歴任した栄えある地位です）に就いたりと、栄光の生涯を送った科学者です。
しかし彼の生徒たちは、彼の無口さをからかいのタネにしていたようですね（＾＾；
学生達は「ディラック」というお喋りの単位を作りました。１ディラックは年間１単語に相当するそうです（って、それじゃ少なすぎだろ）。

『虚数空間』に関しては、先のホーキングが似たようなことを提唱してます。何でも、時間と空間のひっくり返った虚数空間という概念を使えば、ビッグ・バン時の特異点が消せるのだそうです。
何のことかわからないのは僕も同じです（＾＾；

ディラックの海に共に飲み込まれたアスカ・・・。
どうも何か感じ取ったようですね。彼女も真実に迫るのでしょうか。
リツコさんの苦悩と、変化にニコニコ。
ゲンドウ同様、過去の負債はたくさんありますけど、今後に期待です。

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