第０２話「知らない天井」Ｆパート

　夕日が完全に落ちて、街灯が道を照らす。
　地図に従ってゆっくり歩いて、そろそろ５分。

「あの建物…？」

　思わず、地図を再確認してしまう。
　暗く、どの部屋にも明かりがない廃墟。
　たくさんの人々が住むはずだった巨大なマンション群。
　だけど、今、工事は中断され住人の姿はない。
　街灯すら所々、ランプが切れてるけど交換されていない。

　ちらっと後ろを振り向くと、４０ｍほど離れたところに
　黒服の男の人がこちらを見ている。

　ＮＥＲＶ本部からずっとついてきているガードの人。
　さっきお礼の挨拶をしたら驚いてた。
　いちいち、ガードにお礼を言う人なんていないんだって。

　　…そういうものなのかな？

　地図に書かれた棟の階段を登っていく。
　エレベータは動いていない。

　　…本当に綾波さん、こんなところに住んでいるの？

　表札を見ると「４０２号室　綾波」と書かれている。
　郵便受けには溢れそうなチラシの山。
　部屋の主が戻ってきていないかのよう…。

　　カチ、カチ

　インターフォンも反応しない。壊れているみたい。

　ドアのノブを回してみると…開いちゃった。
　鍵がかかっていないなんて。

「綾波さん…」

　心配だけがどんどん大きくなっていく。

　扉を開けてみると、床上にはスリッパの跡。
　埃が薄く積もっていて、長い間、ここに人がいなかったことがわかる。
　スリッパの跡は行きだけで帰りがない…
　視線を先に進めていくと、ベットの上に綾波さんが
　制服姿のまま倒れ込んでる。

「綾波さん！」

　靴を脱いで急いで駆け寄る。
　触ることに一瞬、躊躇する。

　冷たかったら…

　その時、胸が規則正しく上下しているのに気がついた。
　…良かった…寝てるだけみたい。

　周囲を見回してみる…。
　ダンボール箱一杯の血まみれの包帯。
　冷蔵庫の上にはビーカーと眼鏡。
　半開きのクローゼットには制服の予備が２着。
　打ちっぱなしで剥き出しのコンクリート。
　キッチンはいつ使ったのかわからない状態。

　毛布をかけなおしてから見回してみる。

「…とりあえず…掃除からだね」

　ん、何かな…視線を感じる…

　いつのまにか寝ちゃってたみたい。
　寝ぼけ眼のまま、周りを見回してみると、
　壁に寄りかかってたボクの隣に綾波さんが一緒に座ってた。
　二人揃って仲良く１枚の毛布を使ってる…。

「起きたんだ…」

「…えぇ」

　そう言ったまま、綾波さんがボクを見つめる。
　月明かりに照らされて、蒼い髪と紅い瞳が幻想的な雰囲気を帯びる。

「…どうしたの？」



「なぜ、碇くんがここにいるの？」

「迷惑だった？」

「…そんなことない」

　不思議。肩を触れ合っているのに怖くない。
　なぜ…やっぱり綾波さんの紅い瞳が
　透き通っている感じだから…かな。



「綾波さん、今、何時？」

「２２：５０」

　まっずーい。門限過ぎちゃった…。
　でも、なんだか動きたくない。
　体が重たい感じだし…それに眠い…。

　携帯端末を取り出して短縮ボタンを押す。

　プルルルルルル

『シンリくん？』

「はい。あの門限過ぎちゃったんですけど」

『今から移動するのは避けたほうがいいわね。
　泊めてもらいなさい。具合が悪くなったらすぐに連絡すること。
　いい？』

「綾波さん…今日、泊めてもらってもいい？」

「（こくん）」

　綾波さんは、そうしたほうがいい、というように頷いてくれた。



「綾波さんから許可、もらえたんで泊めてもらいます。
　明日は何か予定、ありますか？」

『レイのところと一緒にスケジュールを送付して
　おくから確認してちょうだい。
　それじゃ、早めに寝るのよ…』

「はい。リツコさんもそうしてくださいね」

『その言葉だけで嬉しいわ。じゃ、おやすみ』

「おやすみなさい」

　電話が切れる。
　静かになった部屋…
　隣には綾波さん…
　ここで寝ても大丈夫って思った途端、意識が落ちていく。

　　…ここは安心できる

　ボクは落ちていく心地よさに身を委ねて目を閉じる。

　　カチャ…ン

　手から滑り落ちた携帯端末が床を叩く音が小さく聞こえた。

　碇くんを見ると、意識を失っている…。
　心拍、呼吸音に異常はない。
　体温は…私と同じくらい…問題ない。

　床は綺麗に雑巾がけがされていて、散乱していた包帯も
　全部、整理されている…。

　　なぜ…碇くんは…

　肩に寄りかかった碇くん。軟らかい髪質が気持ちいい。
　
　なぜ…私は落ち着いているの…

　いつもは一人きりの部屋。静寂だけが支配する場所。
　だけど、今は碇くんの静かな呼吸の音が聞える。

　…そう…近くに生きている存在がある

　碇くんが言っていた自然…こういうことなのかもしれない。

　碇くんの髪に顔を埋めて、目を閉じる。

　　…なぜ…落ち着くの？

　答える者のない問い。
　何も無い心に落ちた一滴の疑問。

　　何も無い部屋。

　同じモノが置いてある部屋…なのに印象がまるで違う。
　心に生まれた波紋は尽きることなく広がっていく。



　　それは…心地良かった。

　プシュー

「リツコ、シンちゃん外泊だって？」

　おざなりにノックをしてそのまま入ってくるなり一言。
　その声にリツコは、露骨に顔を顰めることで応えた。

「いったいどこから聞いてきたのかしら？」

「内緒。で、シンちゃんとレイ、どこまで進んだの？」

「…呆れた。まさか、そんなことを言い出すなんて」

「何いってんのよ、あの年頃の子にとっては、異性の家に
　行くだけでもＢＩＧイベントなのよ！　これを見逃す手はないわ」

　呆れるリツコに対して、大真面目に力説するミサト。
　好対照な二人だった。

「…別になにもなかったわよ」

「なによ、結局、リツコだって覗き見してたんじゃない」

　へへん、とニヤけて笑う目は爛々と輝いている。

「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。
　私はただ怪我の治りきってないシンリくんが大丈夫か、
　心配になっただけよ」

「ふ〜ん。で、レイはどーなの？」

　さりげなく聞いた一言。
　だがその一言で場が冷たく変わった。

「…問題ないわ」

「それは結構なことね」

　そっけない答えに、皮肉めいた返事。

　　緊張が走る。

「…何がいいたいの？」

「レイに対してはちょっち冷たい気がしてね。
　あんまり意地悪してるとぉ、老けるわよん♪」

　ミサトは、ジェスチャーまで交えてからかう。

「なんですって！」

「怒らない、怒らないっと。仕事が残ってたんだったわ。
　少しは様子を見に行かないと…じゃね」

　ミサトが去っても、リツコの部屋から静寂まで
　持っていかれてしまったようで、場に落ち着きがない。

「…」

　老ける…

　思わず手鏡を取り出し、ジッと見つめるリツコであった。

　起きた途端、目に飛び込んできたのは透き通るような蒼い髪。
　それと肩に寄りかかる重さ。

「綺麗な髪…」

　なにげなく撫でてみる。手触りが気持ちいい。

　　　・
　　　・
　　　・

　　そういえば、ここはどこ？

　周囲を見回してみるけど、コンクリート壁の簡素な部屋。
　ベットと冷蔵庫とクローゼット、それとダンボール箱しかない。

　　もそもそ

　　な、何？

　見てみると、ボクに綾波さんがほお擦りしている。
　なんだか気持ちよさそうな表情をしている。

　　綾波さん？

　　そっか。

　ボク、片付けをやったあと寝ちゃったんだっけ。

　　なんだか気分がいい。

　最近、こんなに気分のいい朝ってなかった気がする。

「…」

　そういえば、誰かと一緒に朝を迎えるなんてひさしぶり。
　そのせいかな…気分がいいのは。

「…朝」

　日差しが気持ちよさそう。

　　日差し？

　…そういえば昼間、出歩いちゃ駄目って言われた気がする。
　今、着てる服は紫外線対策はできてない。
　ってことは昼間は外出できない。

「今日のお仕事、どうしよっか」

　そういえばスケジュールを送付する、って言ってた。
　携帯端末で内容をチェックしてみる。

　良かった。なぜかわからないけど今日、予定に入ってたテストは
　みーんな中止になってる。のんびりしてもいい日なんだ。

　　もそもそ

　　ん？

「…あさ？」

「うん。…だけど今日はお休みだからのんびりできるよ」

「…そう」

　半分、夢の中にいるみたい。
　なんだかとっても新鮮な気分。
　普段、キリっとしてる綾波さんに、こんな一面があるなんて。
　なかなか頭がスッキリしないみたいで、目の前をぼ〜っと見ている。

「綾波さん？　牛乳飲む？　昨日買ってきたんだけど」

「…ぎゅうにゅう？」

「そう。飲むでしょ？」

　コクリと頷いた。うーん、ほんとに頷いたのかちょっと不安。

　そっと、毛布から抜け出して、キッチンにいく。
　ちゃんと昨日、綺麗にしておいたから、鍋もフライパンもすぐに使える。
　コップはたくさん予備のものがあったから１個拝借。
　ゆっくりと弱火で加熱。
　温めだけど、ボクにはぴったりの温かさで止める。

　　ちょっとひと舐め。

「ん、いい感じ」

　綾波さんを見ると、まだぼ〜っと前を見てる。
　うーん、何が見えるのかな。

「綾波さん、はい、熱いから気をつけて」

　湯気の出ているコップをそっと持たせる。
　ちゃんと持っているのを確認して手を離した。

「どう？」

「…温かい」

　少しだけ飲んだ綾波さんが一言。
　やっと起き始めたみたい。

　のんびりとした朝。
　遠くから聞える生活の音と鳥の鳴き声だけが時が
　過ぎていくことを教えてくれる。

　たまにはこういう日もいい。

　改めて見まわしてみると、コンクリート壁がとっても目立つ。
　遮るものがほとんどないから。

「…質素な部屋だね」

　ボクも倹約してたつもりだけど、ここまで徹底するなんてできないな〜。
　病院を途中で退院しちゃったってことは、やっぱり…経済的に厳しいんだろうし。
　そんな素振りを見せないなんて綾波さんって強い。

「…そう？　わからない」

　わからない？　肯定でも否定でもなく…。

「…保護者の方って遠くに住んでいるの？」

　一緒に住んでないってことは、窮乏生活を強いて、
　自分は逃避行中…だよね、やっぱり。

「…私の保護者は碇司令よ」

　わたしのほごしゃはいかりしれいよ

「碇司令？」

「そう。私の保護者は碇ゲンドウ」

　いかりげんどう

　それはボクの父さんの名前。

　保護者？

　誰の？

　綾波さんの。

　綾波さんのぉ！？

「…その…前から今と同じ生活をしているの？」

「…えぇ」

　住んでいる場所、見たこと無かったけど。
　いつも同じ服装で変だな、とは思ったけど。
　なんであんなに仕事ばかりしているのか不思議だったけど。
　仕事のことも自分のことも何もいわないのが不思議だったけど。
　リツコさんのところにたまにきて食事をしていくのは仲がいいのかと思っていたけど。
　リツコさんと籍を入れないのが不思議だったけど。

　まさか…

　まさか…

　父さんが借金を抱えているなんて…

「綾波さん、生活、辛くない？」

「問題ないわ」

　これ以上ないってくらい住宅費が安そうなマンション。
　最低限以上、使いそうもない光熱費。
　地を這うように低いエンゲル係数。
　これ以上、倹約しようがない室内。
　なのに、問題ないっ、て…。

「…どうして泣いているの？」

「え…？」

　ボクの頬に流れる涙を綾波さんが指で拭う。

　こんなに倹約して…。
　でも…やっぱり痩せてまで維持する生活じゃない！
　怪我の治療も満足に受けられないなんて…。
　せめて最低限の健康的な生活くらいはしなくちゃ。

「ボクたち、同じ保護者ってことは家族だよね？」

「…家族？　私に…家族？」

「そう」

「…」

　ボクの言葉に綾波さんは目をぱちっ、ぱちっと瞬かせた。

「苦しい時は助け合わなくちゃいけないよね」

　とりあえず共同生活すれば生活費は維持したまま質の向上はできそう。
　ここが一番、安いマンションだよね、間違いなく。
　部屋は…ここに二人が住むのはちょっと厳しいけど、
　まぁ、慣れれば問題ない…と思う。
　携帯端末は持っているから情報は得られるし、連絡手段も確保している。
　服は支給品でとりあえずはＯＫだよね。
　学校は制服だし、ＮＥＲＶではプラグスーツだから。
　後は、問題の借金だけど…。
　ボクに一言も言わないってことは多分、ボクが聞いても駄目。
　やっぱりリツコさんに相談かな。

「綾波さん、ボクと一緒に生活することになってもいい？」

「碇くんには部屋が支給されるはずだわ」

「ん、そうだけど、家族は普通、一緒に住むものだよね？」

「…わからない」

「父さんはちょっと理由があって一緒に住めないみたいだけど、
　ボクと綾波さんは一緒に住んでもいいと思うんだ。
　家事も二人でやれば楽だし、ね？」

「…家事は…やったことない」

「だったらなおさら、独りで生活するのは大変だよ。
　ボクは一応、一通りのことはできるから、ね？
　やったことがなければ、これから少しずつ挑戦していけばいいと思う。
　どう…？」

「多分、碇司令の許可が必要」

「それはリツコさんに相談してみる」

「…赤木博士？」

「うん。リツコさん、優しいからきっとボク達の力になってくれるよ」

「赤木博士が優しい？」

「うん」

「…そう」

　なんだか納得してない表情をしてる。
　どうしてかな〜。

「とりあえず、今晩、リツコさんに相談してみるから」

「…そう」

　なぜか戸惑っているように見えるけど…。

「あの…もしかして迷惑だった？」

「…そんなことない」

　小さいけどはっきりとした言葉。

「よかった」

　気持ちが伝わるように微笑む。

「…なぜ、泣いているの？」

　なんだか今日は涙腺がユルくなっちゃってる。

「とっても嬉しい時って涙が出るけど悲しくて泣いて
　泣いてるわけじゃないから」

「…」

　不思議そうにボクの涙を見つめる綾波さん。
　あんまり見詰られると恥ずかしい…。

　それからボク達は携帯端末を使って周囲の地図を確認したり、
　交通機関を見てみたりしてみた。
　知らない場所。
　綾波さんも最寄のコンビニエンスストアくらいしかお店は知らなかったみたい。
　ちょっと遠いけど、いろんな商店があった。
　宅配サービスが第三新東京市には無いのがビックリしたけど、
　ま、これくらいの距離なら多分、平気。
　
　二人ともあまり話さないほうだから、会話が弾むってことはないけど、
　綾波さん、なんとなく新しい生活のこと、喜んでくれてるみたい。


　　一緒にがんばろうね、綾波さん。

　やっとシンリがレイの生活実態を知りました。
　本人は真面目に考えているんですけどね。
　次回は、リツコに今後の身の振り方の相談です。

　感想を下さった皆さん、ありがとー。
　ちょっとペースダウンしてますけど、皆さんのおかげで
　気力が復活してきました。
　一度、ブランクが空くと復活させるのが大変なので、
　注意しないと。