☆スポンサーにも訪れてくださいね☆
「葛城さんの洗濯物、取りに行ってたのが懐かしいなぁ」
日向は、コインランドリーで洗濯物を受け取り、そうぼやいた。
つい３ヶ月ほど前までは、ミサトは、といえば、本当に生活の大部分を
仕事に費やし、帰宅しても食事、風呂、睡眠以外は何もしていないような
生活がほとんどだった。
洗濯は全自動クリーニングに任せるだけ、仕事が忙しい、といって
日向についでに取ってきてもらうような無神経さを見せていたものだ。
ところが、シンリ、レイと同居するようになってからは、自宅では洗濯
できない硝煙反応がついた制服などを除いて、洗濯は自宅で
行うように変わっていた。
「シンちゃんってアイロンがけも上手なのよねぇ」
などと、嬉しそうに話すのを見て、内心、中学生にやらせてるのか？ と
突っ込まないでもなかったが、ミサトの表情を見て、そんなことを
言う気も失せた。 どこか作りモノめいたそれまでのミサトの表情と違い、
その態度に、感情がストレートに乗っているのを感じたからかもしれない。
『次期市議戦には、高橋、高橋覗をよろしくお願いします♪』
市議会選挙が近いこともあって、候補者の売り込みに忙しい宣伝カーから
若い女性のよく通る声が響く。
各議員の主義主張、これまでの実績など、ネットに全て公開されているから
情報が伝わらない、ということはない、という意見もあるのだが、議員候補が
市民に訴えかけるためには、直接、人が触れあったり、話しあったりしないと
いけない、そうしないと熱意が伝わらない、という根強い要望があるため、
いまだに選挙活動といえば、宣伝カーが騒音紛いのお願いメッセージを
がなりたてるのは変わらない。
チカ、チカ、チカ…ふっ
道路の信号機が、そろそろ青に変わろうか、というタイミングで突然、光が消えた。
「…？」
信号機の全てのランプが消える、というのは普通はあるはずがない。
不審に思い、周囲を見渡すと、日頃、定期的に切り替わるはずの
看板の表示も、５分経過しても切り替わらない。
商店街から聞こえるはずのＢＧＭもいつのまにか鳴り止み、静けさが漂い始めている。
「事故か…か？」
慣れた手つきで、携帯端末を取りだし、ＭＡＧＩが行っている情報サービスに
アクセスしようとする。もし、この区画の作業者がヘマをやって、停電が起きているのなら、
そろそろ復旧してもいい頃だ。
遠くから、信号システムが停止したせいで交差点などで、自然渋滞が起きて
喧騒が聞こえてきている。
…？ カチ、カチ…！？
「システムダウン！？ いや…こりゃ、普通じゃないぞ！」
携帯端末に表示されたのは、「圏外」の文字。郊外ならともかく、市内、しかも
駅前の繁華街近くとなれば、携帯の中継機は混雑時にも対応できるように
サービスエリアを重複した形で、複数、稼動している。
だから、もし最寄の中継機が故障したとしても、別の中継機とのリンクが成功するから
アンテナが１本も立っていない…電波到達範囲内に中継機がない…などという
状況が起こりうるはずがないのである。
普通ならば…。
第３新東京市の中央地区にある巨大なビル郡を見て、更に異常を強く認識した。
普段ならば航空機との衝突を回避するために、常時、警告灯が点灯しているはずなのに
どのビルからもその輝きが失われている。
異様な静けさ…普段、気にすることのないエアコンの室外機が動く音が生み出していた
雑音が全て排除されることで、空間内に満ちていた人工的な音がほとんど消えたために
起きた状況が、更に不気味さを助長する。
正・副・予備の３系統で電力供給を行っている以上、市内全域が同時停電することなど
理論上、ありえない。 あらゆる電力供給システム…発電設備、中継設備、回線が
３重化されているのだから。
日向は胸元の護身用ＰＤＷをチェックすると、手近なところにいる保安部の職員に
接触を図り、ともに兵装ビルへと向かい始めた。
使徒との戦いで寸断されることが多い通信網をなんとか維持するために、各兵装ビルと
ジオフロントの発令所は光ファイバー回線で直結されている。
途中の中継機は光回路で稼動するから電力をほとんど必要としない。
この異常事態でも発令所と連絡を行うことができるはずだった。
＊
「…まさか、本当に起こるとは…」
その日、大西は部下と共に第３新東京市へときていた。情報交換や、組織運営に
伴う定例会議に出席するためだった。
「どうされたんです？」
怪訝そうな表情をする部下を見て、内心の葛藤を隠して勤めて冷静に指示を与える。
「全ての施設が停電状態に陥るとはただ事ではない。
戻って、この異常を皆に知らせろ。
対応方法については貴様に任せる」
「二佐はどうされるのですか？」
「通信が駄目なら直接行くまでだ。…いいな」
「…わかりました」
一瞬、逡巡する表情を見せたものの、型通りの敬礼をして部下は去っていった。
これで何かあったらあいつに責任を取らせられる。
大西は、馬鹿正直に指示に従った部下を見て蔑みの笑みを浮かべた。
何か手柄を立てることがあれば、フリーハンドを与えた自分の力量、対処能力を
喧伝できる。もし、失敗したなら、俺は部下をかばう上司を演じればいい。
いつも通り、部下は切り捨てて俺自身は訓告か、悪くとも２、３ヶ月の減棒で済む。
ミスをしない人間などありえない。
問題はミスをした時にどう責任を取るか、だ。大西は部下に責任を取らせることで
自分は致命傷を負わないように振舞い続けた。
そう…これまでは。
…くそ、なんで俺がこんなことを…
謎の男から情報を得た後、頭を冷やして考えてみた。
情報が正しい可能性は高い。罠にしては手が込み過ぎている。
わざわざ、全市停電などという事故を起こしてまで自分をはめる意味などない。
できれば自分以外の誰かに情報をとってこさせたかったのだが、そればかりは
不可能だった。
大西とて、自分の人望のなさくらいは自覚している。 それに、上層部に
干されている、といってもその対象はせいぜい自分だけであり、部下達は
転属は余儀なくされるだろうが、クビになることはない。
追い詰められているのは、自分一人。そんな状況で、情報奪取のために
動くことを言いだすような部下など一人もいない。
この機会を逃せば、任期満了と同時に戦自から大西のいる場所はなくなる。
それだけは明らかだった。
今回だけは部下を使えず、自分しか動ける者はいない。
それに「次」もない。
大西は自分に従わない部下達への悪態をつきながら、手元にある紙の地図を頼りに
非常出口のひとつからジオフロントへと降りていった。
＊
「それにしても、済まんかったなぁ、委員長」
「え？ き、気にしないでいいのよ。
ほら、こうしてお茶会に呼んでもらっているんだから」
ヒカリはそう言って、手に持っているケーキの箱を軽くあげて見せた。
あまり見ることのないトウジとヒカリの組み合わせ。
ジオフロントの病院へ向かう移動通路に近づき過ぎず離れ過ぎない微妙な…
2人の心の距離を表しているかのような位置に立って何気ない会話を
続けている。
もっとも、鈍感なトウジはまるで気付いていないが、ヒカリはといえば
ちょっと落ち着きなく舞い上がっているような感じがする。
「そや。わいも気にせぇへんかったんやが、ケーキちゅうもんは
いろいろあるもんやなぁ。どれも似たようなもん、と思うとったわ」
そう。今日、トウジは初めてケーキを自らの手で購入したのである。
もちろん、今までにも買ったことがないわけではないが、せいぜい
誕生日用の丸い！ 大きい！ 選択肢がほとんどない、という
イチゴをあしらった生クリームケーキを定番のように手に入れていた
だけだった。
ところが、昨日、妹のナツミが、お茶会用にケーキが食べたい、と言い出した。
しかも、店と商品名まで指定して。
普段、聞き慣れない商品名の羅列に、いくら食べるのが好きなトウジでも
ちと、覚えるのに不安を覚えたのだった。
「それなら、この前、きてくれたヒカリお姉ちゃんに一緒に見てもらえば
いーじゃない。料理、得意だって言ってたし、いろいろ詳しかったから。
シンリさん達も一緒だもん、誘っても平気でしょ？」
妹の提案に、トウジは昼休みの食事風景を思い出して納得し、
ヒカリを茶会に誘う代わりに、買出しを手伝ってもらったのである。
…無論、その話を聞いたとき、ヒカリが内心、ナツミの心遣いに
感謝の言葉を告げたのは言うまでもない。
「鈴原、ぜんぜん知らなかったもんね。
イチゴショートケーキ、チョコレートケーキ、チーズケーキの３種類しか
思い浮かばなかったくらい…」
ヒュゥゥゥン…
ヒカリはケーキショップまでの道筋でトウジと話した内容を思い出しながら、
言葉の交換を愉しんでいた。
けれど、突然、照明が非常灯の薄暗く赤い輝きに切り替わり、移動通路が
停止してしまったため、言葉が途切れた。
「…なんや、停電かいな？」
「そう…みたいね」
「しゃぁないのぉ。ほなら歩くか。立ち止まってても埒があかんわ」
「…うん」
2人とも手摺に掴まりながら、ゆっくりと歩き始めた。
暗闇で視界が効かないせいか、少しずつ2人の距離が近づいていく。
足音だけが響く…。
普段は空調の僅かな音が満ちていた通路も、こうしてあらゆる
音が途絶えると、閑散とした雰囲気が助長される。
いつのまにか、2人とも自分達の吐息が聞こえるほど、静寂の中で
耳を澄まし、音を欲していた。
そして、静けさを壊す放送が、機械仕掛けの正確さで流れ始める。
『非常事態が発令されました。
この放送は、MAGIシステムによる制御が切断された地区で
自動的に行われているものです。
電力供給が何らかの理由により絶たれたため、現在、この地区は
MAGIシステムの制御から外れています。
機密保持のため、ガードシステム”グラシャラボラス”が独立稼動状態に移行しました。
全装甲隔壁の閉鎖ならびに、移動通路、エレベータは停止されます。
センサーを保持しない対象は無条件に射殺されます。
また、行動許可地区以外に移動している人も同様に処置されます。
詳しくは、近くの保安要員に確認してください。
繰り返します…』
突然、通路に響き渡ったアナウンス。
人が話しているとはいえ、録音されたものであろうことがわかる
独特の声の抑揚が、余計に人が周囲にいないことを自覚させる。
カシャン、カシャン、カシャン、カシャン
隔壁が自動的に閉ざされ、同時に通路の至る所に設置されていた
小さな扉が開く音が次々に響き、中から直径５０ｃｍくらいの丸いロボットが
わらわら、と這い出てきた。
通路中を見渡す限り動き回っている小さな殺人ロボット達。
そう。ヒカリもトウジもジオフロントに出入りする、ということで、以前、この
ロボットが哀れなターゲット人形を、それこそ粉微塵にする映像を
鑑賞させられていた。
非常灯だけが照らす薄暗い廊下、閉ざされた隔壁、這いずり回る無数の
殺人ロボット達、その状況を駄目押しで認識させる警告放送。
次々に襲い掛かる非日常。
それは何の戦闘訓練も受けていない普通の中学生の女の子が
平静を装える限界などとうに超えていた。
「鈴原…わ…わたし…」
怖い、…そう言いたいのに言葉が出ないほど震えてしまう。
追い詰められていることがはっきりとわかる震える声に気がつくと、トウジは
血が滲むほど手を握り締め、不甲斐なく震えていた脚に拳を叩きつけて
無理やり止めると、大きく息を吸ってから…ヒカリの手を強引に握った。
「大丈夫や、委員長。
こいつら、賢いから間違うことはあらへん、て赤木博士も言っとったくらいや。
それに、そこの先に休憩所がある。
あそこはシェルターの代わりにもなるんや。
せやから、そこに行けば安心や」
強く、強く手を握り締め、努めて冷静に言い聞かせる。
自分の言葉を自分自身で信じようとするかのように。
ちょろちょろと足元を対人迎撃システム「グラシャラボラス」の機動
ユニットたちがうろついているが、意識から無理やり追い出して、
今は、目の前の、助けを求める少女だけを見続ける。
「…うん」
縋るようにトウジの手を握って、やっと口から出た言葉。
「大丈夫や」
「…うん」
ヒカリの手を引き、力強く歩き始めるトウジ。
その歩みにはもう、萎縮した感じなど微塵もない。
ヒカリは握り締められた手の痛みが、自分を気遣うトウジの
気持ちを表しているように感じて、とても嬉しかった。
＊
作戦方針を決め、技術部、作戦部、保安諜報部などが共同して、
電力復旧、通信設備網の復旧をするべく、作業を行っている様を
第一発令所の最上位席から確認する。
既に部下が動き出した以上、ゲンドウが今できることは何もない。
適宜、判断を下すのが役目であり今はまだそのときではないからだ。
…だが、ゲンドウは手元のコンソール…あらゆる電源が落ちているはずなのに、
なぜか電力供給されて稼動中の一つのパネル…を操作し、自らの腕に
含まれている遺伝子パターンを読み込ませて、極秘のシステムを起動していた。
「冬月、今から奴らを解き放つ。…いいな」
ゲンドウの態度はいつもと寸分も違わない。
だが、その口調に僅かに逡巡の色が混じったのはきのせいだろうか？
「珍しいな。お前が私に確認するというのは…。
無論、構わんよ。
この騒ぎ、このまま、起した奴らが情報を持ち帰るのを
眺めているのは癪だからな」
冬月の同意を得て、ゲンドウはコンソールを操作する。
回線が繋がり、どこか…音のしないどこか…そこにいる相手との
会話が可能になった。
「…私だ。命令はただ一つ。見敵必殺。
ジオフロントから生きて帰すな」
誰を、とも何をとも言わない。簡潔過ぎる一言。
そこにどんな想いが込められているのか窺い知ることはできない。
『命令ヲ受ケヨウ、我ラガ主』
機械で変調された個性のない声がゲンドウの命令に応える。
それは、セカンドインパクト以降、消滅するまでの間の旧東京を
知っている者ならば、恐怖なくして聞くことができない地獄に誘う声。
スピーカー越しに聞こえてくる、複数の装甲強化服が発する微かな駆動音の共鳴。
それは、死者達が現世に戻ってきたことを示す合図だった。
＊
『海中聴音装置に正体不明の反応あり。騒音は艦隊クラス、移動速度は毎時１００ｋｍ程度。
発生音から、目標の移動手段は『徒歩』。脚の数は４本と推定されます。
予想上陸地点は旧熱海方面です』
オペレータの報告と同時に、戦自の統合本部が誇る巨大スクリーンに映る日本地図が
局地図に切り替わる。正体不明反応のサイズ、進行方向が表示されているのだが、
移動手段の表示にシステム上、対応するものがなく、仕方なく「不明」とされているあたり、
異常性が滲み出ている。
「…恐らく８番目の奴だ」
「あぁ、”使徒”だろう」
サキエル戦でＮＥＲＶ本部で指揮をしていた３人が険しい表情のまま会話を続ける。
「どうします？」
「警報シフトにしておけ。決ま…」
彼が事前に決めた計画に従って対策を指示しようとしたが、画面上に
突然、表示された緊急事態の文字に指示を中断する。
『日本列島全域の監視網より警告。
現在、ＮＥＲＶ本部接続ラインが全線、無反応状態に陥っています。
直通回線、電話回線、どちらも不通、原因は不明です』
世界全域の空間異常を検出するＮＥＲＶの監視網から、日本政府…特に戦自には
使徒がくるたびに、その侵攻予想情報が提供され、国民への非難勧告などに
使われていた。
水面下では争いが絶えない日本政府とＮＥＲＶだが、こと、使徒の侵攻に対しては
１分、１秒の退避の遅れが致命傷になるだけに、どちらも情報共有をすることに対しては
例外的に協力関係をとっているのである。
それに使徒発見以降の無人観測機による計測などは、戦自かＵＮ軍が受け持つことも多い。
ところが、今回はＮＥＲＶから事前の報告が一切、なかった。
関係者達が不審に思い、回線故障も念頭において、別ルートから接続しようとしたが
それで、現在の異常事態を把握するに至ったのである。
「馬鹿な！！！ 電波通信はどうした！！！」
『使徒の電波霍乱のため、不通です』
絶望的な報告が帰ってきた。
バキッ
男が持っていた鉛筆が握り締められて砕ける。
「…ＮＥＲＶ本部で大規模な事故が発生した、と判断する。
政府に通達しろ。
それとトライデントチームとの連携を図るため、レーザー通信中継機を３機、
第三新東京市の市民へ非難勧告するため、広報機を２機出せ！」
『しかし、それでは協定違反に…』
「災害派遣時は、例外とする規定がある！
早くしろ！ 使徒は待ってはくれんぞ！！！
あぁ、救助ヘリは待機させておけ。
使徒がきてるのに無理はできん」
『了解』
オペレータの返答と同時に各基地、ならびに市町村に対して使徒接近の
警報が通達される。この連絡はほぼ自動化されており、日本政府の
判断が挟まれる余地はない。
最初に日本に上陸した使徒”サキエル”との戦闘の際に政府判断の遅れと
情報連絡の不備によって、各地で大混乱が発生したことの教訓を生かした
措置だった。
「使徒のほうはどうするか…」
通信、という必要最低限の機能すら停止しているＮＥＲＶ本部の実状。
そして自分達の戦力の使徒に対する攻撃力の絶望的な不足…。
それを自覚してもなお、彼らの心に「諦め」の文字は存在しない。
「…最悪、我々の手で止めるしかないでしょう」
「だが、Ｎ２兵器ですら足止めにしかならん」
日本政府お得意の憲法解釈によって、”Ｎ２兵器は核ではない。”という
判断が行われ、なし崩し的に戦略自衛隊でも、Ｎ２兵器は装備している。
サキエル戦でも、ＵＮ軍から提供を受けることなく、自前で艦隊殲滅用の
Ｎ２弾を使っていた。 結局、僅かに脚を止めただけに過ぎなかったが。
「とにかく…情報だ。使徒の奴らは毎回、違う形状、能力だからな。
観測機も出そう。それと…迎撃ポイントの決定か」
彼らは部下達に指示を飛ばすと、日本政府に対しても、Ｎ２爆弾の
使用許可を打診し、迎撃ポイントの算定を始める。
サキエルへのＮ２地雷による攻撃、イスラフェルに対する内部からの
小型Ｎ２弾による攻撃、ガギエルに対するＮ２魚雷での攻撃の情報を
総合的に分析し、Ｎ２兵器が効くタイプの使徒もいる、と
彼らは冷静に判断していた。
＊
「２番目のお兄さんは言いました。『おいらの家は木でできてるから安心さ』。
でも、狼はやっぱり、大きく息を吸いこむと…」
マユミの話しかけるような語り口だけが静かな病室内で響く。
…といっても、ちゃんとギャラリーはいる。ベットに座っているナツミと
広げられた絵本を覗き込むように身を乗りだしている子猫のライである。
理解できるとは思えないのに、ナツミやマユミが話を読むと、絵本を覗きこみ、
そのページを読み終えると、次のページを「ニャ、ニャ」と催促する仕草が
面白くて、”世界童話全集”の小学校低学年向けのものを読んで聞かせるのが
２人の日課になっていた。
子猫が繋いだ２人の年の離れた少女。
望んでも手に入らなかった過去を取り戻すかのような行為。
知らない人が見たら、仲のよい姉妹に見えるほど、ナツミの病室からは
いつも楽しげな声が聞こえる。
それは看護婦の間でも微笑ましく噂になるくらい。
そんなささやかな一時は…いきなり室内の照明が切れたことで中断された。
「「…」」
非常灯に切り替わったせいで、目が明るさの変化に付いていけず、
暗闇に覆われたような錯覚に陥り、言葉が途切れ、室内が静まり返る。
廊下から、看護婦の慌てた声が聞こえるところを見ると
明かりが消えたのはこの部屋だけではないらしい。
幸い、ベット脇のナースコール用のコンソールからは光は失われていない。
重要な機器は別系統で電気がきているらしかった。
「ニャァ、ニャァ」
電子ペーパーの表面を軽くこすって、子猫のライが催促の鳴き声をあげる。
暗くなったことより、マユミの語りが止まったことへの文句のほうが大きいらしい。
「ライ、暗いと字は読めないの。我慢なさい」
呆れるようなマユミの声。
「ライくん、暗くても目が見えるもんね」
「ニャン」
ナツミの言葉に、なぜか誇らしげな音色さえ含んだ鳴き声を返す。
『緊急放送、緊急放送。
現在、ジオフロント内に非常警報が発令されました。
当院の外部扉は全て、閉鎖しました。
指示があるまでは、各人、自室にて待機してください。
また、緊急用発電機で電力を供給しているため、室内灯の使用は
一部、制限していますがご了承ください。
不明な点がありましたら、お近くのナースセンターに
問い合わせをお願いします。
緊急放送、緊急放送…』
「マユミお姉ちゃん…」
これまでにも何度か聞いた院内放送だが、慣れるものではない。
ナツミが内心の不安を紛らわすように、声をかける。
「…大丈夫。 またしばらくすればいつものように終わるから。
私がついているから大丈夫…」
マユミは安心させるためにそう告げたが、内心、違和感を覚えていた。
使徒がきたなら、その旨の放送があるし、医師達に緊急事態に備えるための
集合を促す放送がある。なのに、今回は病院だけを完全閉鎖。
非常用電力に切り替わったのも始めてではないが、今回は特になにか
爆発の音が響くわけでもなく、振動が襲ってきたわけでもない。
その差が、なぜか気にかかった。
「…うん」
マユミの内心の揺れが僅かに表情に現れたのを見て、ナツミの声も沈みがち。
室内に言いようのない不安が満ち始めた。
「ニャ〜ォ」
２人の注意を引こうとするかのようにナツミの手から離れると
ベットの隣にある台の上に乗って、入り口のドアに向かって
威嚇するかのように、でもどこか緊張感なく鳴いて見せた。
「「…？」」
器用に後ろ脚と尻尾でバランスをとって直立しているが身体を
大きく見せようとでも言うのだろうか。
由緒正しい猫族なら、四つ足で背を高く見せ、尻尾をピンと伸ばして
自分を大きくみせて威嚇するような気もするが。
それに、前足で目の前を引っ掻くような動きをしているが、
どーみても、可愛い招き猫がお客を呼んでいるようにしか見えない。
「護ろう…と…してくれてるのかしら…？」
「ニャ」
嬉しそうな鳴き声で応えるとナツミのほうに向いて暗がりでも
わかるほどキラキラと目を輝かせてる。
ナツミは何を期待されているのかなぁ、と考えて
ほぼ毎日、読んで聞かせている童話の１シーンを思いだした。
「ふふっ、騎士様、どうか私達を御守りください♪」
わざわざ胸の前で手を組んで芝居かかった態度まで見せて
楽しそうに、ナツミはお願いの言葉を紡ぐ。
「ニャン♪」
止せばいいのに、胸まで反らして、機嫌よくライは鳴いてみせた。
…この子、こんな仕草、どこで覚えたんでしょう？
目の前で楽しそうにナツミとじゃれ合って遊んでいるライを見て、マユミはクビを傾げた。
子猫と一緒に語らう室内。
いつのまにか室内から不安が見当たらなくなっていた。
＊
ザバァァァァァァァァ
旧くは熱海と言われた地方に、伸ばせば１ｋｍ以上の長さになるであろう
太さもエヴァ並にある長く巨大な４本の脚を使って、８番目…マトリエルと
呼ばれることになる使徒が上陸を開始した。
胴体部分は前後左右の区別はつかない扁平な形状で対角線上に脚の
付け根があり、脚の間には目のような模様が見える。
丁寧に胴体部の底にも同様の模様が描かれているが、他のものと違い、
下面全部に１つなので、目のサイズは他よりもずっと大きい。
そして、長大な脚。 関節は途中に１つ、胴体部が地面スレスレなのに対して、
人間なら膝に該当する関節部はそこより遥か３００ｍほど上方に位置している。
形状的に見て、シャムシェルと同様の外骨格タイプと推定された。
蜘蛛のような印象は受けるが、脚のつき方、本数などはまるで違う。
『”使徒”、旧熱海海岸に上陸しました。依然、侵攻中』
「ＮＥＲＶ本部は！？」
『現在も連絡がつきません。
…レーザー通信中継機、所定位置につきました。
トライデントチームとの回線接続を確認。
回線、開きます』
メインスクリーンに、トライデント級軽巡の格納庫が映り、整備服姿の男が現れた。
定年間近なのか、髪に白いものが混じっているが、サングラスの奥に隠れた
眼光が意志の強さを感じさせる。
『整備班長の明石です。現在、大西二佐との連絡が取れないため、
私が代行しています』
「わかった。ＮＥＲＶの連中は何をやっとるんだ！？」
『現在、市内全域で停電状態が発生、通信網は完全に麻痺しています。
市民はさきほど、広報機からの連絡を受け、シェルターに移動中です。
我々のいる施設は郊外にあるため、トライデント級軽巡”雷電”は
退避準備は進めていますが、パイロットの到着待ちです』
「そうか。わかっていると思うが、トライデント級軽巡では使徒には
傷を負わせることすらできん。無駄な損害は極力抑えるんだ。
いいな」
『自衛のための交戦権について許可を出してもよいでしょうか』
「無論だ。自衛のための戦闘はいかなる場合でも許可されている」
『わかりました』
その後、通信回線の維持など、細かい詰めを担当者同士が行い、情報の交換を行う。
統合本部内が慌しさを増す中、日本政府との直通回線から連絡が入った。
だが、その内容は彼らを落胆させるに十二分過ぎる内容だった。
曰く
『使徒の我が国への攻撃の意図は明確ではなく、悪戯に刺激することは
回避する必要がある。よって戦自からの攻勢は許可できない。
使徒からの直接攻撃が日本の都市、戦自の基地への被害が明確にならない限り、
日本政府は、交戦することを認めない。
なお、使徒との戦闘終了後に救援活動を行うか否かについては
更に閣内で調整中であり、現時点での救助部隊配備は行ってはならない』
…と。
「それでは、我々は使徒の侵攻を指を咥えて見ていろとでも言うのか！！！？
通常時ならともかく、ＮＥＲＶ本部は今、開店休業状態、それでもか！？」
「…そういうことになるな」
憎々しげに一人が内心の不満を隠そうともせずに、そう吐き捨てた。
「第二東京の連中は今、何をしてるんだ！？」
「逃げ支度だそうだ。この指示もオペレータからの一方的な通達。
現時点で、政府の連中はもとより、統幕会議のメンバーとも今は連絡が取れん。
第二は、かなり混乱してるな…」
『航空部隊から、発進はまだか、と連絡がきていますが…』
「…現時点での攻撃は取り止めだ。
各基地へもそう通達しておけ」
『…了解。…え？ は、は、はい、今、繋ぎます』
オペレータが一言、二言、話をしただけで、基地のほうから、凄まじい剣幕で
文句の嵐が襲い掛かり、彼女は焦って、メインスクリーンに通信を切り替えた。
『攻撃中止とはどういう訳ですか！！！
事前迎撃チャンスはもうあと僅かしか時間がないんですよ！！！』
ＮＥＲＶ本部が機能喪失状態にある、という情報は既に末端の基地にも
伝わっており、いつになく使命感に燃えた指揮官が噛み付く。
「その程度、我々とて理解している！！！
だが、統幕会議経由の正式な命令だ！！！ 従わない訳にはいかん！！！」
文民統制…この言葉がズシリと彼らの心に重く圧し掛かる。
『…もし、使徒が第三新東京市のジオフロントに侵攻しようとしたら
どうするつもりですか！！！ それから発進したって間に合いはしない！！！』
第三新東京市が築かれるにあたって、ジオフロント内にある第一使徒アダムと
他の使徒が接触することでサードインパクトが起きる、ということは佐官クラスまでの
者達は誰でも知っている常識だった。
「少しは黙れ！！！
…貴様らには、第三新東京市上空２万ｍで、待機任務を命じる。
使徒のジオフロント侵攻が予測できた時点で、サードインパクトを防止するため、
Ｎ２弾で威嚇攻撃を行え。 市民はシェルターの中にいる。使用しても問題はない。
だが、攻撃開始の判断は我々が行う。 それだけは徹底しておけ！」
心の底から搾り出すように、新たな命令を口にする。
怒鳴りつける態度、オペレータ達が思わずビクッとするほどの迫力。
だが、その目からは冷静な印象しか受けず、怒鳴っているのも
ポーズだと誰もが理解する。
「おいおい、それじゃ…」
隣の軍人が僅かに懸念の表情を浮かべる。
もっとも「攻撃中止」と言っただけで「発進の取り消し」を命じない態度から
この展開を予測したのか、その声に、驚きは含まれてはいない。
どちらかと言えば、最後の確認、といった雰囲気だった。
「サードインパクトが起きれば日本なんて消し飛ぶ。つまり、それを防ぐために
我々が自衛手段を行使するのは政府からも許可は得ている、ということだ。
別に問題行為には当たらない」
「ふん、詭弁だな。…ま、俺もその意見に賛成するが、ね」
そう言った軍人は、同意を求めるように、ニィと笑った。
その言葉に態度を決めたのか、他の者達も、無言のまま頷く。
『…了解。これより第三新東京市上空にて待機任務につきます』
通信が終わり、メインスクリーンに航空基地からＮ２弾を装備した爆撃機が
発進した表示が加わる。大局的に見て、正しいと思われる行為。
…しかし、その表示を見る統合本部の人々の表情は複雑だった。
＊
『こちらは第三管区航空自衛隊です。ただいま、正体不明の物体が
第三新東京市に向けて移動中です。
住民の皆さんは速やかにシェルターに避難してください』
あ…空自のセスナ１７２Ｄだ…
なんとなく空を見ていたマナは、遠くから接近してくる軽飛行機を見て
そんなことを思っていただけだったが、スピーカーががなりたてる
内容を理解すると、隣をのんびり歩いていたカヲルに
疑問をぶつける。
「渚くん！ 使徒が接近しているって！」
「あぁ、僕も聞いたよ」
カヲルは返事をしながらも、何も見えるはずがない遥か彼方に
視線を固定したまま、マナのほうを向かない。
「…何か見えるの？」
マナはそっちを見てみるが、いつもの山々が見えるだけで
侵攻してくる使徒が見えたりするわけでもないし、いつもと
違いがあるようにも見えない。
「…しばらく時間はありそうだね。
さて、どうするかな。
霧島さんはどうしたい？ もし、シェルターの場所が
わからないなら送るよ」
カヲルは、そうすることが当然だろう、というように
確認の言葉を口にした。
「普通の市民みたいに隠れてるってこと！？
渚くん、予備って言ってもエヴァのパイロットでしょう！？
こういうとき、どーすればいいか聞いてないの？」
「もちろん聞いているさ。
ただ、僕の場合、シンクロ率が酷くてテストにも実戦にも使えないからね。
ＮＥＲＶ本部にいないときは、無理にジオフロントに向かうよりは、
身の安全を守るためにシェルターにいたほうがいい、らしいよ」
「そっか。私の”雷電”も使徒相手に今のままじゃ勝てないし、
そのほうがいいのかな…」
そのとき、マナはレイの言葉を思い出していた。
「正・副・予備の３系統があるから大丈夫」
「リニアカタパルトで地上まで射出するから」
その電気がいま、死んでしまっている。
街中、歩いてきた場所、全てが停まってしまい、動いているのは
自動車やバイクくらいだったのを見ている。
あるはずのない第三新東京市全域の停電。
それに、使徒が来ているのに兵装ビルが戦闘形態になっていない。
シンリ達から、戦闘時には中央区画のビル群が収納されることは聞いている。
そこから推測されるのはジオフロント…ＮＥＲＶ本部自体にまで
この停電が及んでいる、ということ。
すなわち…エヴァは動かない。
「…そんな…ねぇ、渚くん！
ＮＥＲＶ本部が停電でも、エヴァは動くの！？
地上まで出て戦えるの！？」
「ん？ いや…確か、エヴァを格納庫から出すのにも、地上に打ち出す
ためにも、大量の電力が必要だったはずだよ。
それに、エヴァが使う武器も、アスカくんが使うアクティブソード以外は
電気がないと動かないはずだ。
非常用バッテリーがあったはずだけど、地下施設で使う作業機械も
空気を汚さないように電気式だと…」
カヲルにとっては、まだ緊張を強いる状況ではないのか、記憶を辿る
態度も、どこかのんびりしているような気がする。
「何のんびり言ってるの！！！
エヴァも動かない、兵装ビルも動かない、それどころか、市民を
シェルターに避難させるための市内放送すらなかったじゃない！！！
使徒がきても、誰も止めなかったら、ジオフロントに簡単に
入られちゃう！！！」
交通渋滞、退避行動の案内情報がないことによる混乱などで、街中が
喧騒に包まれていく…その事態の重大さを理解したマナの言葉に、
カヲルも自らの認識のズレを自覚した。
「…済まない。確かにマズイ状況だね。
でも、僕達はどうするべきだろう？
シンリくん達はジオフロントにいるから、僕がＮＥＲＶ本部に今から行くのは
意味が薄いだろう？
ＮＥＲＶも無能じゃない。今ごろ、復旧作業も進んでいるだろうしね。
電力復旧は時間の問題だと思うよ」
カヲルは、それでも落ち着いた口調で、現状を認識させる。
「今はその時間がないわ！
…せめて、ＮＥＲＶの修理が終わるまでの間だけでも使徒を止めないと…。
止める…そう…そんなに長い時間でなくてもいい…」
考えを纏めようとするマナを見て、カヲルも無言のまま結論を待つ。
「…私…私が戦って使徒を止める」
少しだけ考えた後にマナの口からでた結論。
それには、カヲルも驚きの表情を浮かべた。
「しかし、霧島さんの”雷電”では使徒には…」
「うん。…悔しいけど勝てない。
でも、時間稼ぎくらいはできると思う。
ほら、シンリくんの初号機とシミュレーションで戦ったけど、私、
一時間近く、戦闘継続して引き分けに持ち込めたもん。
だから…できる、と思う」
何をするべきか考え、答えを見つけたマナ。
そこには、与えられた命令を、ただ実行するだけの駒としての姿はない。
「…君が死んだらシンリくんはきっと悲しむだろうね。
死なないと約束できるかい？」
約束できるはずがないのに、それを誓わせるための問い。
カヲルはいつになく真面目な表情で、返答を待った。
「…まだ私、１４歳だよ？
やりたいこと沢山あるし、私もこの街、好きだから。
だから…無理はしない。
死ぬつもりなんてないよ。…答えになってるよね？」
カヲルの、魂まで見通そうとするかのような紅い瞳の視線を受けても
マナは自分の想いを偽ることなく話した。
答える義務などない。
約束できるようなことでもない。
…それでも、言葉にすることで、自分の意志を揺ぎ無いものにする…
その力を与えてくれる…そんな確信があった。
「”己が手で未来を掴み取る”…か。
君のその気持ちは好意に値するよ。
僕もその想いに何かをすることで報いたい…。
さて…」
ふと見ると、停電騒ぎのせいだろうか。
主のいない自転車が道端に何台も乗り捨ててある。
カヲルはその自転車を『見る』と、使っても問題がないものを２台選び
無造作にチェーン鍵を引き千切った。
「嘘！？」
「いやぁ、どーも芯まで錆付いていたようだね。
…”雷電”のある格納庫まで送るよ。
僕がいまできるのはそれくらいさ」
カヲルは１台の自転車にまたがると、後ろに乗るように薦めた。
何気ない仕草で、手に残っていたチェーン鍵を草むらに投げ捨ててから。
「私も自転車くらい乗れるよ？」
「いや。やはり、せっかくガードをしてくれているんだし、
付き合ってもらったほうがいいと思ってね。
…そんなわけですから…よろしくお願いしますよ」
カヲルは少し離れたところで、ベンチに座っていた女性にいつもの
アルカイックスマイルのまま、一緒にくるように求めた。
女性はというと、少し驚いた顔をしたが、覚悟を決めたのか
仕方なくもう一台の自転車に乗った。
「さ、霧島さん」
恭しく求めるカヲルを見て、マナも好意に甘えることにした。
「それじゃ渚くん、格納庫まで…遠いけどお願い」
「じゃ行くよ」
キィコォ、キィコォ
予想以上に力強い踏み込みでカヲルは自転車を漕ぎ始めた。
だんだんスピードは乗ってきたのだが、少しふらつく感じが
いまいち不安を煽る。
「ねぇ、渚くん！ もしかして自転車に乗るの苦手！？」
カヲルの身体にしがみ付きながら、マナが風の音に
負けないように問い掛ける。
「曲がりたいときはハンドルを曲げて重心を傾ければいい、
倒れそうになる方向にハンドルを切れば倒れない、
ペダルを漕げば前に進む、ブレーキを握れば
停まることができる、それくらい知っているさ。
いやぁ、自転車というのも面白いモノだねぇ」
キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ
力強くどんどん加速されていく自転車。
後ろからついてくる保安部の女性が何か言っているが、風の音で
よく聞き取れない。
「まさか、乗ったことなかったの！？」
「問題ないよ。僕が辿り付くと決めたんだからね。
さ、残された時間は多くない。もう少し急ごう！」
揺れる自転車の動きに振り落とされないように
カヲルに懸命にしがみ付く。
「♪〜♪〜♪ いやぁ、なかなかこれは難しい乗り物だけど
面白いね。気に入ったよ。♪」
鼻歌交じりに、まったく疲れる様子もなくマナを乗せたまま
凄まじい速度で一路、郊外の格納庫へとカヲルの自転車が
爆走し続ける。
キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ、キィコォ
マナは、これなら”雷電”の乗り心地のほうがまだマシ、とさえ
思いながら、格納庫に無事に辿り付くことだけを懸命に祈っていた。
後からついてくる保安部の女性が頭を抱えてしまうほど
走っていることが不思議になるめちゃくちゃな暴走。
だが、彼女は「現実に前の自転車は走っている」ということを
認識していたがゆえに、それが本来ならとっくに転倒している
…それをこの世界の物理法則が保証している…はずだったが
その事には気付かなかった。
＊
非常灯に照らされた第一発令所。
たどり着いたリツコとマヤは青葉とも手分けをして、使徒迎撃準備と
侵入者撃退のための作業指示を終え、今はＭＡＧＩが３者一致で
自動防衛モードに入っていることを確認した。
技術部のメンバーからの報告を元に最速の復旧ルートを決め、
今、動ける者は現場に向かっている。
２人は方々に散らばった作業者達へ指示を行うため、この場に残っていた。
「マズイわね…空気も澱んで来たわ。…これが現代科学の粋を集めた施設とは…」
パタパタ
蒸し暑さに負けて、トレードマークの白衣を脱ぎ、普段は上まできっちり
締めているボタンを二つ目まで外し、どこから取り出したのかわからないが
団扇でパタパタと扇いで、少しでも不快感を和らげようとしている。
「でも、さすがは司令と副司令。この暑さにも動じませんね」
マヤも、同じようにラフな格好にして団扇のお世話になっている。
青葉は…というと、内心、役得、役得、と思いながらも、目の保養を
愉しんでいるような素振は見せないように細心の注意を払っていた。
上を見ると、司令席でいつものポーズを取ったままゲンドウは動かず、
冬月も隣でいつものように立っている。
２人とも、この蒸し暑さにも動じることなく、服のボタンを外しさえしてない。
…？
リツコも内心、感心したのだが、いくらなんでも同じ人間である以上、
無理をするにも限度がある…その事実に気がついて、裏がある、と
見切っていた。
「…ぬるいな」
「あぁ」
リツコの視線を受けて、なぜか、全てを知られたような気になったゲンドウ。
だが、今、このポーズを崩すわけにはいかない。
それは後ろに立つ冬月も同様だった。
どこから用意したのか、防火用、と書かれたバケツに２人とも
水を張って、足を突っ込んでいたのである。
膝上までズボンをまくり、靴下を脱いでバケツで涼む姿だけは
悟られないようにしなくてはならなかった。
＊
それからしばらくして、下層のオペレータが大声で叫んだ。
「今、日向二尉から連絡が入りました。
使徒接近中。エヴァ発進の要アリ。
直上ビル群については、非常用燃料電池を使って、戦闘形態に
移行させる、とのことです！！！」
「冬月…後を頼む」
さすがに時間がたち、バケツの水が温くなり過ぎたので、
今はもう靴を履き直している。無論、バケツはいつのまにか
影も形も残っていない。
「どこに行く？」
「ケイジだ。エヴァ発進の準備を急がせる」
「だが電力はまだ復旧していないぞ。リニアカタパルトの起動準備も
終わっていない」
エヴァのケージと隣接した位置にある第４実験場。
そこを緊急の格納庫として利用しているジェット・アロン。
その主装備である大型レーザーライフル用の電力供給ケーブルから
無理やり配線して、リニアカタパルトを稼動させるための準備を
技術部…そういった特殊で緊急なことが得意なメンバー…が
行っているが、さすがにまだ接続は完了していない。
残念ながら出力が違い過ぎるため、適切な変電設備を経由しないと
エヴァには電力供給をするのは無理だった。
「緊急用ディーゼルがある。それに、私がここにいてもやることはない。
なら、せめて上司が先頭を切って働く姿勢くらいは見せなくてはなるまい。
赤木博士！ ケイジに行く。
一緒に来てくれ」
「わかりました」
タン、タン、タン、タン
はしごを使い、下に下りていくゲンドウを見て、言うべきか
迷ったことを誰もいない司令席に告げた。
「だが、保安部はまだシンリくん達と接触できてないぞ」
もちろん、その言葉を聞く者はいなかった。
＊
「何よ、これ」
途中で合流した保安諜報部のサングラスをかけた男達４人…その中の
一人が差し出した銃…私だって銃くらい知ってるけど、なぜ、そんなものを
私が持たなくてはいけないのか、それが知りたかった。
せっかくガードしてくれる人達と合流できたのに、厳しい表情のまま、
懐から銃を差し出したのを見て、レイは平気そうだけど、シンリは
不安そうな表情をしてる。
「…お守り代わりと思ってくれればいい。
この中で実際に射撃訓練を受けているのは、惣流・アスカ・ラングレー、君だけだ。
今、このジオフロントは正体不明の破壊行為を受けて、保安機能が麻痺してる。
我々は君たちを守るために全力を尽くすが…最悪の事態の時には
…これを使って自分で身を守ってくれ」
そう言って渡されたのは、拳銃みたいに小さいけど、立派なサブマシンガン。
引き金の前にある湾曲したマガジンを握ることで両手で撃てるタイプみたい。
後から、その銃がスコーピオンＶｚ６１の名で知られ、チェコスロバキア（旧）と
呼ばれていた地方で現在も作られているものであることを知った。
ホルスターごと渡されたソレは、目の前の男の手の中にあったときは
片手用のように小さく見えたけど、持ってみると、私の手だと、
両手で構えないと駄目そうだった。
鈍い輝きと、ズシリと重く、冷たい鉄の感触が、私の心に強く圧し掛かる。
「…わかったわ。
でも、私だって撃ったのなんて数える程度なんだから、
しっかり守ってよね」
ホルスターをセットして、肩から銃を吊るしたけど、中学生の制服に
似合わないこと甚だしい。
私の作業をこの場の全員が注目している。
わざと軽い口調で言ったけど、そうでもしないとこの場の緊迫した
雰囲気に耐えられそうもなかった。
「…例え、ライフルで撃たれても、我々は突破できない。
安心したまえ。 それは万一の備えだ。
使わせるようなことには…決してさせない」
静かに…そう…全然、虚勢を張るわけじゃなく、子供だからといって
口先だけで誤魔化そうとするわけでもなく、告げられた言葉。
彼らは、私達を自分達と対等の相手として扱い、覚悟を求めた。
前後に2人ずつ、自らの身体を盾にして、ケイジへの通路を
私達を護りながら彼らは進んでいく。
決して巨体というわけではない男達…なのに、その後姿は
とても頼もしく見える。
歩きなれたケイジへの道。
なのに一歩ずつ前に進むだけでも、物音一つにも神経が
過敏に反応してしまい、時間が酷く遅く感じられる。
ホルスターで吊るされた銃は、実際の重量よりも
何倍も重いような気がした。
＊
「用意はいいか！」
「準備よし」
「いくぞ。３、２、１、セット！」
ピー、ピー、ピー、ピーーーーー
日向と、離れたところにいるサングラスをつけた保安諜報部の男が同時に
携帯端末から、それぞれの目の前にある非常用コンソールに電子鍵を送り込み、
中央区画のビルに設置された非常時用燃料電池が稼動を開始、緊急時の
シーケンスに従い、固定ボルトのロックが解除される。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォ
轟音と共に、地下へと沈降を開始する巨大なビル。
落下時のエネルギーを回生ブレーキが電力に変え、燃料電池からの電力と
束ねることで、なんとか沈降完了後の隔壁閉鎖までを行う非常手段。
それは、使徒の苛烈な攻撃で周囲を破壊されて、区画ごと孤立しているような状況でも
防御システムを稼動させるために、サキエル戦以降に新設された機能の一つだった。
高さ数百メートル、重量数千万トンにもなる鉄とコンクリートと強化ガラスの
巨大な塊が落下し、地響きを伴い、轟音を奏でる様子は一種の高揚感さえ
与えてくれる。
だが、日向達はそんな光景などには目もくれずに一目散に手近な
ところに止めさせていた選挙カーに走りこんだ。
後部座席の狭いシートに保安諜報部員…サングラスをかけた体格のいい
男2人と日向が乗り込み、車内の暑苦しさを急激に引き上げる。
「次、商業地区に向かってくれ！」
「ガッテン承知！！！」
運転手の男が、日向の熱意に汚染され、普段なら決して
行わないようなアクセル捌きを見せて、悪夢のような速度で
宣伝カーを疾走させていく。
ブォォォォォォン！！
『当管区内における非常事態宣言発令に伴い、緊急車両が通ります……って、』
「… あの、次の交差点、右ですけど、もう少しスピードを落としたほうが…」
既に全ての車両が緊急事態にあわせ、道路の脇に車を止めているため、
彼らの疾走を邪魔するモノは存在しない。だが、のんびり法定速度で
走ったことしか経験したことがないウグイス嬢にとっては、この速度は
とても曲がれるようには思えなかった。
だが、マイクから口を離した彼女が見た日向と運転手の表情からは、
見事に「安全」という文字は消えてしまっていた。
「いいから突っ込め！ 非常時だからな！」
「りょ〜かい！！！」
運転手の目が喜びに震える。
普段、常識ある人なら、法定速度を守って安全運転なんぞを心掛けてはいるが、
車を走らせることに喜びを見出す者なら、誰でも一度は制約なしで
街中を走ってみたい、と思うらしい。
…彼もその一人のようだった。
グォォォォォォォォン、キキキキキキキキィィィィィ
運転手がハイになった目で叫ぶように応えると、ワゴン車なのに、
器用に４輪ドリフトを駆使して、交差点を横に流されながらも、
速度を維持したまま突破してしまう。
片側３車線…合計６車線をフルに使った強引なカーブ。
助手席の隣、僅か１０ｃｍ程度の距離にまで迫ったガードレールを
眼前で見たウグイス嬢が叫ぶ。
「いやぁぁぁぁぁ、もう止めてぇぇぇぇぇ！！！」
絶叫を撒き散らしながらも暴走を続ける宣伝カー。
けれど、彼女のささやかな願いは叶うことはなく、日向に指示されるままに、
宣伝カーは中央地区のビルの間を走り続け、全てが戦闘配置に移行するまで、
その暴走を止めることはなかった。
＊
むちゃくちゃな暴走の末にトライデントの格納庫についたが、カヲルは
「僕はここにいると話がこじれそうだからね」と言うと、マナを降ろした後、
すぐに手近なシェルターへと去っていった。
…ありがとう渚くん。…でも、もう二度と乗りたくないな
せっかく短時間で運んでくれたカヲルに対して失礼だなぁ、と思いながらも
そう思ってしまう。
グォォォォォン
倉庫内に響き渡る作業車両の音、慌しい発進準備。
自分ですら”雷電”の出撃の必要性に思い至ったくらいだから、当然、みんなも
そのことに気がつき、発進準備をしているのだろうと、一瞬、思った。
けれど、よく見ると、”雷電”はまったく追加装備が付けられていない。
固定兵装のレールガン以外に何も武器を持たない通常輸送時のまま。
嫌な予感が心を過る。
その考えを払おうとするかのように、気付かぬうちに言葉が漏れる。
「…みんな何してる…の…」
軍用兵器の倉庫に入ってきた小柄な少女。
その姿を見て、整備員達が視線を向ける。
しかし、その眼差しは、マナが祈ったモノとはかけ離れていた。
ふぅ…。
停電時の出来事を、多方面から描写したんですが、
さすがに、それで更に１パート続くとダレると思い、ぜーんぶ
Fパートに積み込んでしまいました。（＾＾；）
おかげで、分量が５０ｋｂ近く。（笑）
ちょいと、分量が多くなっちゃいましたね。
でも、どのシーンも削るに惜しくて…。
ま、削るとしたら、トウジ＆ヒカリのシーンと、マユミ＆ナツミ＆ライの
シーンくらいですけど…。
☆スポンサーにも訪れてくださいね☆