第２０話「心のかたち、人のかたち」Ｃパート

　――３日目。

――ジオフロント内、病院の一室。
　深夜、それまで死んだように眠っていたアスカが目覚めたとの報を受けて、ミサトが訪れていた。
　アスカ本人の希望によるもので、ゼルエル戦の顛末を聞かせて欲しい、ということだった。

「そっか…」

　かいつまんで説明されるのを目を閉じて聞いていたが
　心底、安心したというように、小さな声で呟く。

「ん」

　上手くいけば…という言葉を笑顔の底に沈めたまま、
　そっとアスカの想いを包み込む。

　　何も語らない静かな時間。



　小さな口が何度か、言葉を紡ごうとして躊躇する。
　…ミサトは、心の整理がつくのをまった。



「…悔しい…」


　　音へと姿を変えた想い。


　何が、とも、どうして、とも言わない。
　閉じたままの目許から涙が流れる。

　取りだしたハンカチでそっと涙を拭いて、
　ミサトは寝乱れた髪を撫でて整えた。


　　言葉のない触れあい。


　病室の空気はどこまでも穏やかだった。

　作戦部ミーティングルーム。
　室内は、重苦しい雰囲気に覆われていた。

　無理もない。３機のエヴァはどれも戦闘不能。
　零号機は中枢に至る酷い損傷のため、胸部パーツを中心にほとんどを
　全交換しなくてはならず、その調整まで考えると当分、戦力外になる。
　また、フィードバックで大怪我を負った綾波レイは医療ポッド内で
　懸命な治療が続けられているが、外に出るだけでも３週間はかかる。
　死の危険性が低いことだけが、数少ない朗報という惨状だった。
　弐号機は、全力機動をしたため、全身の骨格、筋肉への負担が大きく、
　これも元通りの性能を取り戻すには時間がかかる。
　パイロットの惣流・アスカ・ラングレーは、心身の疲労が酷く、
　短時間起きていることがやっとという有様であり、
　普通の生活に戻るまでには、やはり一ヶ月程度はかかりそうだ。
　幸い、同様の症状がサキエル戦直後のサードチルドレン――シンリ――で
　みられたことから、医師達の対応も適切なものにはなっている。
　そして、初号機。まったく制御の目処が立たず、エントリープラグを
　取り出すことすらできていない。まして、パイロットである碇シンリは
　向こう側が透けているような前例のない異常状態にあるのだ。

「…寄生された３号機の修復は論外として…
　エヴァが回復しても、使える武器がない…か」

　日向は総括するため、敢えて報告書の内容を言葉にした。

　スナイパーポジトロンライフルは蓄積した陽電子がなくなった。弾がない銃に価値はない。
　多薬室式機関砲―― エンジェルバスター ――は、砲弾が少しずつ搬入されてきてはいるが、
　磨耗した砲身の替えがない。合計２１基に及ぶ薬室に付随する機関部の損傷も修復しきれていない。
　まして、撃ちだすのに必要となる大量の液体炸薬の備蓄もほんの僅かだ。
　パレットガンも今は、零号機専用Ｖｅｒは通常の倍の電流を流すようにしている。
　そうでなければ効果が期待できないからだが、全弾撃つだけで加速レールが解けて曲がり、
　銃身部周りを工場で交換しなければ使えない。その替えとて最早少ない。
　スナイパーライフルは２丁あるが、質量センサー搭載型は１丁だけ。
　バズーカはあるが、発射する弾が少ない。１発が戦艦の火薬庫にも匹敵するようなサイズなのだ。
　それを使徒との戦いとなれば、惜しみなく連射するのだから、簡単に供給できるわけもない。
　他に、ハンドガンがあるが、低威力武器が役立つとも思えない。

　近接武器も、ソニックグレイブは既になく、スマッシュホークも前回で壊れた。
　最高の強度を誇ったアクティブソードも折れてしまった。
　設計時の限界を超えた負荷がかかったのだから、それも仕方がないことではある。
　しかし、簡単に折れたところを溶かして打ち直せば直る、というほど単純ではない。
　残っているのは標準装備のプログレッシブナイフだけ。寒い限りである。

　エヴァの装甲も、辛うじて３機分用意はできるがもう予備はゼロ。
　世界中探しても回して貰えるパーツすら残っていない。
　１枚しかなかった盾は３／４サイズになってしまった。

　支援兵装では、陸上軽巡はゼルエル戦で１隻が轟沈したため、残り１隻。
　スクラムジェット推進式ＡＰＦＳ弾、通称グングニルの槍も２週間後に１本できるだけ。
　日本周辺に展開していた軍が保有する弾道弾、対艦、対地ミサイルの類もほぼ打ち止め。
　多くの爆撃機、航空機搭載型Ｎ２弾もまた、ゼルエルの迎撃によって失われた。

　攻撃衛星ＳＯＬは健在だが、連射のきかないレーザー砲撃がどの程度役立つか微妙だ。
　砲撃艦を含む艦隊は世界各地にいるが、主兵装が改装前のパレットガンと同等では
　頼みとするにはあまりに心許ない。

　そして、本部周辺の地盤は壊滅的な被害を受けてしまい、予断を許さない状況にある。
　都市を丸ごと造れるような建設財をかき集めて、補修作業を行っているが、
　ジオフロントの圧壊を辛うじて防いでいる、というのが正直なところだった。

　復旧用資材、分散生産している部品の搬送もなかなか進まない。
　飛行機も船舶も燃料がなくては動かない。メンテナンス機材が不足すれば調子が悪くなる。
　そんな当たり前のことすら充足できなくなりつつあるのだ…。

　見回すが、どの顔も疲労の色が濃い。
　技術部で製造中のものや、材料に至るまで、外輪山迎撃施設跡の利用までも考慮して
　迎撃計画を立案しようと誰もが奮闘してきたのだ。

　…しかし、ここまで手駒がなくては打つ手がほとんどない。
　戦略級原潜からＳＬＢＭを山ほど撃って撃破、くらいしか思いつかないし、
　決戦兵器であるエヴァの稼動機体がゼロになった時点で、作戦の幅はなくなっていた。

「各自、担当方面からの迎撃案について、各使徒毎に検討するように。以上、解散」

　日向の指示で、会議は終了した。使徒相手に空城の計は使えない。
　わかってはいても、気分が落ち込むのを止めることはできなかった。

　――ケイジ備え付けの制御室。
　臨時増設された多くの機器によって、雰囲気が一変した室内。
　ＭＡＧＩ、それとイロウルを利用し、技術部員達は、多くの可能性を振るい落として、
　ある一つの結論に到達していた。

「シンちゃんの…サルベージ計画？」

　作戦部での引継ぎ作業を終えたミサトに提示された試案。

「シンリくんの精神と呼べるものは存在しているわ」

　熟考の末にたどり着いた答え。
　リツコの言葉に迷いはない。

「向こう側が透けて見える状態でも？」

　ミサトとてそうあって欲しい、と思う。
　だが、作戦部内のミーティングで、あの映像が過去の残像…
　のようなものかもしれない、という意見もあった。
　感情論は極力排除せねばならない。
　どうしても、その意見を否定することはできなかった。

「あれは存在確率が量子的重ね合わせの状態に陥っているのよ」

「存在しているのと同時に存在していない。
　…シュレティンガーの猫、か」

　本来の量子的世界であれば、観測された瞬間、確率が確定し、
　状態はどちらかに決定されてしまう。量子状態をそのまま、
　壊すことなく観測するには特別な手法が必要だ。
　それに、量子的効果は極小世界でしか通用しない。
　人体のような大きなサイズで類似現象が起きること自体、
　常識の枠を超えている状態だった。
　　※量子状態を肉眼で確認できるボースアインシュタイン凝縮体は数ｍｍサイズ。
　　　　しかも、極低温でなくてはその状態は維持されない。

「ＮＥＲＶが欲しいのはシンちゃんの命ではなく、道具としての初号機…」

「否定はできないわ」

　感情の感じられない声。

　道具としての初号機…言うのは簡単だが、実際には自我を持ち、
　制御できない初号機を管理下に戻すだけでも至難。
　まして、別のパイロットやダミープラグを受け入れるとは
　到底、考えられないのも事実である。

「シンリちゃんは今、過剰シンクロの影響で自我境界線が極めて不安定です」

　火花を散らす二人に割り込み、マヤが説明を続ける。
　今、必要なのは、あの状況を打破する方法であって、
　それがどういった意図で行われるかは、この際、関係ない。

「サルベージ計画とは、現在のシンクロ状態に干渉を行うことで、
　自我境界線の安定化と同時に、心を現実世界へ向ける作業です」

　通常のシンクロ機構を使って、初号機とシンリの間に割り込みをかけて
　信号を制御して、シンクロ率の低下を図る、という模式図を示して説明を終えた。

「…そんなことできるの？」

　ミサトは改めて、二人に答えを求めた。軽い驚きと共に。
　次席にいるとはいえ、直接の部下ではないマヤの活躍ぶりは
　日向とは違い、認識する機会が少ない。

「ＭＡＧＩのサポートがあれば」

　そして、初号機の協力があれば…。
　言葉にできない前提条件には敢えて触れなかった。

「理論上は、よね。
　何事もやってみなくちゃわからないわよ」

　ミサトの呟きは経験者のみが持つ重みが含まれていた。
　理論上は大丈夫だから、と南極でアダムとの接触試験は行われたのだ。

　　胸の古傷が疼く…

　それでも可能性があれば、やってみるしかない。

　リツコが差し出した計画実行のための書類。
　これほどの内容となれば、技術部、作戦部の連名は欠かせない。

　…ミサトは残っている作戦部の欄にサインを記した。

　ジオフロント病院セキュリティ区画。
　その一室、医療ポッドが置かれた無菌室を、冬月は見下ろしていた。
　医療関係者以外は、室内への入室は許されず、訪問者は、窓から
　室内を覗き見ることしかできない。

　　ポッドの小窓から見えるレイの表情に変化はない。

「…（ふぅ）」

　冬月は深い、深い溜息をついた。
　ここ数日でめっきり歳を取ったように疲れの色が濃い。


　医師達がお手上げのジェスチャーを送る。

　…そう。極秘の事実。
　レイはあらゆる医療行為を拒絶していた。
　不可視のフィールドに身を包んだまま、外からの刺激に一切反応しない。
　いや…刺激自体がフィールドを突破していないのだろう。

　医師達が出来るのは、この事実を隠蔽するための足掻きだけ。
　医療ポッドに入れるほどの重傷…それに嘘はない。
　しかし、レイはその治療を自力で行っているのだ。

　　その証拠にあれから３日が経過し、傷が少しずつ癒えてきている。



「………」

　ゲンドウは言った。見守るしかない、と。

　　今のレイは、間違いなく…人とは異なる方法で己が身を修復している。

　それは誰が願った結果か。

　　レイか。

　　　それとも、レイの中にいる存在か。


「………」

　冬月は何も言わず…一見すると眠っているように見える重傷のレイを
　ただ、ただ、じっと見つめ続けていた。

　暗い場所で生まれては消える言葉。
　繰り返されるイメージ、掻き消える心。



　山、遠い山。人の生活と関わらないもの。


　空、灰色の空。この世界の蔽い。


　海、底のない闇。近づきたくない…嫌い。


　太陽、地を炙る炎。偽りの暖かさ。


　雨、流れ落ちる涙。心安らぐ孤独。


　花、作り物。朽ちないもの。…気持ち悪い。


　服、飛び散った赤い色。赤い色は嫌い。


　血、血の匂い。痛い記憶。


　人、あれも人。認めたくない気持ち。


　男、乱暴な幼稚。


　女、冷酷な連帯。


　大人、利己的な停滞。


　みんな、集まると現れる別の顔。嫌いな顔。


　街。人が作り出した物。心の牢獄。


　エヴァ。人の造りし物。たった一つの絆。


　人は何？　地球が育んだ生き物の一つ。それだけの存在。


　人は人が生み出した物。命の連鎖。途切れぬ想い。


　そう思うこれは何…？　これは自分。


　碇シンリという物体。この物体が自分。自分を造っている形。


　目に見える自分。…でも自分が自分でない感じ。


　　…なにか変。


　体が解けていく感じ。


　ボクの形が消えていく


　誰か別の人の感じがする


　　誰かいるの？


　ボクの知ってる誰とも違う雰囲気。
　でもとても近しい…そんな不思議な感触。


　暗く冷たい気配…カヲル君とは違う。


　父さんとも違う。


　キミは誰、キミは誰、キミは誰？


　自分と違う誰か。
　今のボクと違う誰か。
　他人を認識したことで明確になる自分。

　……闇が晴れた。

　――リニアトレインの車内。
　いるのは、ボクともう一人の子だけ。

　夕日が照らす車内。
　でも、その子の周囲だけがどこか薄暗い。

　白い柔らかそうな袖の長い上着とキュロット。
　手に抱えている大き目の帽子。
　肩で揃えられた黒い髪、華奢な体つき。

　夜の闇より暗い漆黒の瞳。


「…キミは………！？」

　喉まで出かけた言葉が消える。
　なんとなく判っていたから。
　自分が自分でないような不思議な感覚がした後、
　どうしても消せない喪失感…その正体。


　薄暗い気配を纏ったまま、感情の失せた声が応える。

「…思い出した？　ボクのこと」


　紡がれた言葉が心を縛る鎖へと変わる。
　太陽がどれだけ照らしても、冷えたままの空気。


　　乾いた心。


　聞き間違えるはずのない口調。
　心の内に響く思考。


「…うん。忘れたこともない…よ。
　どれだけ楽しいことがっても、嬉しいことがあっても。
　心の底にある動かない気持ち…記憶。
　キミは…ボクだよね…」


　事実を認めるだけで、気持ちが沈んでいくのがわかる。
　忘れられない過去、刻まれた記憶、ボクを形作るもの。


　　それこそが真実。



　静かに聞いていた黒い瞳のボクは、
　その時、初めて嬉しそうに微笑んだ。


　――叔父夫妻に預けた後、親の義務を放棄し続けた男のように。

というわけで、久しぶりの黒髪、黒瞳のシンリ登場でした。
シンリの想いとは関係なく、外の世界は時間が流れていきます…。
多くの人々の願いと共に。

さーて、来週もサービス、サービス♪