第２０話「心のかたち、人のかたち」Ｅパート

　――５日目。

　―病院内。

　子供用に高さを調整された２本の手擦り。
　その間を、女の子は震える足取りで少しずつ歩く。
　額に汗が流れ、思い通りにならない現実に苛立つ。

　それでも一歩ずつ、一歩ずつ。

「………」「……」

　丁寧に手入れされた黒く輝く長い髪が印象的な少女が
　肩に乗せた小猫と共に、固唾を飲んで見守っている。

　動ける部分だけでも少しずつ、許可が降りてからは
　プールで泳ぐことで、できるだけムリな負担がないように
　脚の力をつけてはきていた。

　それでも、長い間、歩けないでいたことは
　身体に深刻な影響を遺していた。

　僅か５ｍほど…そこを自力で歩く。

　一歩動かすたびにバランスを崩しそうになる危うさ。

　心と裏腹にまるで思い通りに動かない脚。

　踏み出すたびに足先から頭の天辺まで、身体中の筋肉が震える。

　自立するということ、歩くということ。

　誰もが日常的にしている行為が、実際には全身運動であるとわかる。

　５分ほどかけて、反対側に辿り着いたナツミは
　それだけでパジャマが張り付くほどの汗をかいていた。

「お疲れ様」「ニャン」

　マユミの手を借りて、座り込むと、渡されたタオルで汗を拭う。
　荒れた呼吸を整える間も、傍らで大人しく様子を眺めている小猫が
　嬉しそうに喉を鳴らしている姿は、心を穏やかにしてくれていた。

「…マユミ…お姉ちゃん、ありがと」

　心配してくれる人がいる、そして、できると信じて見守ってくれる。
　それが、どれだけ力強いことだろうか。

　微笑んでくれるマユミの温かさが心地良かった。

「シンリさん、驚くかな？」

「大丈夫よ、きっと」

　マユミはナツミの奮闘を褒め称えた。
　一ヶ月後まで会えない、ということを聞いて、
　がんばってリハビリをして、元気になった姿を見せる、と
　ナツミが言い出したのだった。

　本人のやる気は僅かではあっても確実に
　上向きの治療成果を出している。

　　一ヶ月後。

　再び会える時が待ち遠しい。

　ふと、見るとマユミが遠い場所を見てる。
　その先には望遠レンズをつけたカメラを構えている少年が一人。

　迷彩塗装された服を着て、覗き穴以外すっぽり覆い隠すように
　頭から袋を被り、茂みの中から狙う姿は狙撃兵を彷彿させた。

「…ケンスケお兄ちゃん、また覗き見？」

「”愛の記録”を撮るのは親友の務めだ、って」

　病院備え付けの遊歩道でリハビリをしているトウジとヒカリを
　悟られない距離から、そっと撮影してあげている…らしい。

　そうは言っても、マユミの口調に暇そうな気分が混ざるのは隠せない。
　呆れている、と言い直してもいいかもしれない。

「マユミお姉ちゃんも後で撮って貰えば？」

　クスクス笑いながらだと、ちと説得力に欠ける。

「もう、年上をからかわないの！」

　マユミはめっ、と睨むが、内心、それもいいかも、とか
　思いながらでは迫力なんて欠片もない。

「ニャォン」

　子猫が主の気持ちを代弁するかのように
　それはそれは嬉しそうに鳴いてみせた。

　――闇の中。


　黒髪のシンリが多くの割れたガラスの破片を両手で抱えていた。
　破片には何の関連性もなさそうな様々な風景が映っている。

「…目を背けてもいいことなんてないよ。
　――どうせ、誰も助けてはくれないんだから」

　感情の欠けた目で、自分の血だらけの両手を眺めた。



「さぁ…」


　小さく深呼吸をすると…白金色の髪のシンリは、
　自分の瞳の色のように染まっている両手の下に
　自分の掌を重ねた。

「ごめんね…ボクの記憶なのに」

「…ボク達の記憶、だよ」

　黒髪のシンリが寂しそうに笑い、ジャラジャラと
　両手で抱えていたガラスの破片を手渡した。




　鋭利なエッジが瞬く間に白い手に突き刺さって、
　肘を伝い、服を伝って、足元まで血が流れる。



　　…同時に様々なシーンの欠片が心に影を落とし始めた。





　　己の拙さと幼稚さから目を背けて、仲間の多さで
　　自分の心を騙して、全ての元凶は自分にはないと
　　信じ込んでいる男の子達の歪んだ顔





　　自分に罪はない、と誤魔化すための言い訳を信じて、
　　口を閉ざす女の子達の安堵した顔





　　　口の中に広がる鉄の味





　　拘束服を着せられ、ベットに縛り付けられている少女。
　　…干乾びた老婆のような肌…澱んだ瞳





　　　当たり前のように出回るクスリ





　　見た目だけ綺麗な街





　　定時に帰宅することしか考えない役人。
　　呪文のように、規則、規則と唱える他人顔





　　　床板の冷たさとニスの臭い





　　憎悪すら滲ませて苛つく教師。
　　気にするのは減点式の己への評価。
　　何もないことが最上と信仰する敬虔な態度。





　　　勉強部屋の壊れた扉





　　被害者面した親達





　　　互いに責任を擦り付け合う醜い顔





　　　　自分で考えた嘘を信じようとする滑稽さ





　　欲望に歪んだ目





　　手遅れになってからでないと動かない警察。
　　手遅れになってからも動きたくない警察。





　　　痺れて動かない体





　　噂話を弄ぶ大人。





　　表情のない人。





　　疲れ果てた顔の叔父。





　　全てから逃げている叔母。
　　自分すらも見ない…凍った顔。





　　　洗っても消えない汚れ





　　偽りの顔しか見せない他人。
　　生きながら死んでいる顔。





　　「みんな」に混ざると現れる薄っぺらな顔。





　　　…その場限りの好意。





　　　終わらない嫌悪。





　身体の中にあった暖かい心。
　でも、それも傷口から血と共に流れ出てしまって。





　　蝋のように白くなった肌。





　血溜まりの鮮やかな赤い色は気持ち悪いほど艶やかで。
　滴り落ちる血の雫がそっと波紋が広がって、
　鮮やかな波の輪だけが生きているかのように蠢めいてる。





「これも渡さなくちゃ、ね。
　…一番、大切な欠片だもん」





　血塗れの指で、最後まで突き刺さっていた破片を引き抜く指先。


　使徒の空洞の目のように…闇の色を湛えた瞳が
　最後の記憶を愛しむようにゆっくりと眺め…



　　カチャリ…


　シンリが抱えるガラスの山にそれを丁寧に乗せた。

　顔を思い出すこともできないクラスメイトの少女。
　何の話をしていたかも覚えていない。
　けれど、その一言だけははっきりと覚えてた。



「ねぇ、なんで、あんた、生きてんの？」



　…それは、いままで曇っていた視界が開けたかのような一言。







　　　　どうして？




　今まで考えたこともなかった新しい考え。
　…どうして、ボクは生きようとしてるんだろ？



　　心に広がる疑問。



　その子に、心からのお礼を言ったら…
　気味の悪いモノを見るような目をして走り去ってしまった。



　　本当に感謝してたのに。



　砂地で砂金を探すように、楽しいことを一生懸命探して、
　それに縋って、反芻するようにしてまで………。



　　なんで、そこまでして…？



　いつまでも反響し続ける疑問。





　　　　どうして…？





　…疑問の声に当たって砕けた数少ない楽しい記憶。







　　　　どうして…？





　嫌な記憶に当たるたびに大きくなっていく疑問。






　　そして…





　　　残った…たった一つ…消えなかった枷。




　ボクは…最後の言葉を求めて…第三新東京市に向かったんだ…。

…今回も難産でした。
ちと、見直しをかけるかもしれません。

なかなか…露骨に書かずに、情報を乗せるのは難しいもので…。

次パートは、シンリの３年前の過去（シンリ視点）です。

…お楽しみに。